『ドント・ルック・アップ』アダム・マッケイ
作花素至
[ cinema ]
映画の冒頭、天文台で地球に迫る巨大彗星を発見した大学院生ケイト(ジェニファー・ローレンス)とメンディ博士(レオナルド・ディカプリオ)がただちに首都へ呼び出される。ところが、窓のない倉庫のような輸送機の腹に揺られて行った先は、どこか様子がおかしい。ホワイトハウスは彼らをさんざん待たせた挙げ句に追い返す。付き添いの将軍は彼らから小金を騙し取る。今は非常事態ではないのか。ここは本当に彼らの知っているアメリカ合衆国なのだろうか。
果たして、ケイトと博士が迷い込んだのはアメリカによく似た不思議の国だったのだ。そう言ったほうが、彼らとその国の住人たちとの断絶をうまく説明できるように思われる。現実からやってきた主人公たちに対して、縁故者に囲まれた大統領を筆頭とする住人たちはボードリヤール流の情報の蜃気楼に囚われている。宇宙の遥か彼方の彗星は、彼らにとっては観測データの中の存在でしかない。都合が悪ければ膨大な情報の海に沈めて無視することも、データの虚偽を訴えるあべこべの言説を横に並べることも可能だ。その点では、彗星を気候変動や蔓延する新型ウイルスの暗喩とみなすことはたやすいだろう。ケイトたちは顕微鏡で極小のウイルスを見るかわりに、天体望遠鏡で彗星を目撃したのだ。
観客は、破局した人気歌手どうしのカップルが劇的な復縁を果たすテレビのトーク番組の画面を延々と眺めるのを皮切りに、コマーシャルフィルムや大統領演説のテレビ中継、SNSの投稿などの無数の画面を提示される。この国の「現実」はそれらの画面の中にある。主人公たちに課される最初の試練は「メディア・トレーニング」であり、落第したケイトは迫害され、合格した博士は市民権を得るが、それはすなわち画面上に多く出現する権利にすぎない。世界を救うための彼らの悪戦苦闘はすべて画面の中に回収され、政治論争とキャンペーンにすり替えられてしまう。
しかし、地球に接近する彗星はウイルスとは違って、やがて万人の目にはっきりと見えるようになる。もはや誰もが画面に没入しているわけにはいかないはずだが、人々は「空を見上げない」という身振りによってなおも快い幻影に固執する。不思議の国の住人は主人公たちの手に負える相手ではなかったのだ。彼らは敗北し、最後の数時間、家族を交えて親密な食卓を囲む。家の外では人々が今さらのように頭上を見て、先延ばしされ続けていたパニックに陥っているが、ケイトと博士らはいかにも紋切り型の最後の晩餐の内側にのみ視線を向けている。無根拠の楽観主義としてではない、見て見ぬふりという身振り。その晩餐会は、蜃気楼の世界をただ一つの現実としての彗星が粉砕する瞬間、同じく現実からここへやって来た彼らが開いた歓迎の式典でもあるのだろう。