『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』ジョン・ワッツ
結城秀勇
[ cinema ]
自社のスターを総出演させて観客を動員するオールスター映画なんて別に昨日今日始まったわけじゃないんだから、別にやりたきゃやればいい。でもキャラクターや設定の整合性をとるために必死になって囲いこんで、端から端まで精密に作られた箱庭を愛でるなんて、本来のオールスター映画の無駄なゴージャスさとは真逆の貧乏くささじゃないか。MCUについてそんなふうに思っていた時代が僕にもありました。サム・ライミ版や「アメイジング」シリーズの敵が出てくると宣伝されていた『ノー・ウェイ・ホーム』も、そんなの搾取じゃねえかと思っていました。映画を見るまでは。
「世界観」が映画づくりのすべてに優先するかのような風潮が息苦しいと感じていたのは個人的な不満にとどまるものではおそらくなくて、そんな中からフィル・ロードとクリストファー・ミラーの『LEGO®️ムービー』(2014)やふたりが製作に名を連ねる『スパイダーマン スパイダーバース』(2018)は生まれてきたのだろうし、ジョン・ファブローの「マンダロリアン」にも過去の遺産を伏線として回収するだけではなく、いまここにあるものでできるだけ楽しもうという気概を感じた。話の大筋としては『スパイダーバース』とそれほど変わらない『ノー・ウェイ・ホーム』もそうした系譜に連なるものなのかもしれないのだが、思い起こせば『スパイダーマン ホームカミング』(2017)にすでにそうした兆候はあったのかもしれず、ラモーンズの「ブリッツクリーグバップ」が流れるあの映画では、あるシリーズが終わりまた別のシリーズが始まるのなら、同工異曲ならぬ同工同曲がごとき同じ3コードの2分ちょっとの楽曲を高らかにかき鳴らせばいいだけだと宣言していたはずなのだ。
そして『ノー・ウェイ・ホーム』はこれまで描かれてきた幾多のスパイダーマン作品たちとともに、最も「スパイダーマンらしい」作品になる。スパイダーマンオールスター映画としてふさわしい、無駄な豪華さを手に入れる。それはこれまで作られてきた「違った」スパイダーマンが出てくるから豪華なのではなくて、誰もが「同じ」スパイダーマンだからこそ豪華なのだ。「ノー・ウェイ・ホーム」、つまり帰る道を失ったとりかえしのつかなさとともに、スパイダーマンたちは皆はじめてスパイダーマンになる。「親愛なる隣人」、「大いなる力には大いなる責任がともなう」、そんな耳にタコができるほど聞かされたフレーズが繰り返されるごとにまた同じゲームが始まる。ピッチを切り裂くクロスフィードのようなスパイダーマン、バスケのノールックパスのようなフォームでウェブを繰り出すスパイダーマン、同じだが細部だけがいつも違うゲームの局面局面に目を奪われる。たとえナノテクノロジーでできてようがなんだろうが、スーツを覆う蜘蛛の巣模様の線が太かろうが細かろうが、ミシンで手製の安っぽくて薄っぺらなスパンデックスだろうが、彼らの顔はいつも一緒だ。
だからこそ、マスクを脱いだ彼らの、あの言いようのないほど悲しげで優しい微笑みや、髪をボサボサにして拗ねた子犬のように涙を流す姿や、自分より背の高いMJを抱え上げる姿に、涙が止まらないのだ。