『GUNDA/グンダ』ヴィクトル・コサコフスキー
三浦光彦
[ cinema ]
農場で飼われている動物たちの姿を追っただけのドキュメンタリーが、ある種のポスト・アポカリプティック的な雰囲気を漂わせているのは、我々がまさしくそういった時代、つまり、「人間以降」の時代を生きているからかもしれない。
親豚が自身の子を踏み潰し、子豚が甲高い鳴き声をあげるとき、我々はこう思う。「なんて野蛮なんだ」。そして、カメラは動物たちの肌へと顕微鏡学的な視線でもって接近していき、観客たちを穿つ。普段、動物番組、或いは、動物園などで見かける彼らの姿とは全く違う、異質な姿が目の前に立ち現れる。産毛のような細い毛に覆われたその皮膚、腹部にいくつも連なる乳房、耳障りな鳴き声、欲望の赴くままに行動しているようにしか見えないその姿は、「やはり動物は、人間とは違う」。そんなふうに思わせてくれる。だが、どこかのタイミングで、奇妙な逆転が起こる。極端なクロースアップと立体音響によって緻密に構築されたサウンドによって、被写体の豚と我々観客の距離は削ぎ落とされ、感情移入、なんて生やさしいものではない感覚が観客たちを襲うだろう。それは、あえて言うなら身体の同一化とも言えるような体験だ。我々の身体は、最初は耳障りでしかなかった豚の鳴き声に、いつの間にか馴致され、代わりに、姿の見えない虫たちの羽音が五月蠅く響く。さらには、我が主人公である親豚、グンダの腹に子が群がるとき、自分の腹のあたりがいきなり、もぞもぞとしだし、痒くなってくるのだ。あたかも、我々自身が豚になってしまったかのように。クロースアップとフルショットが切り替わるたびに、我々は豚への対象化と同一化の両極の間で引き裂かれる。
クライマックスは唐突に訪れる。それまで、動物たちの耳につけられたタグや、オフで聞こえてくる機械音によって、その存在を微かに匂わせるだけに留めていた動物たちの主人が非人間的な機械を身に纏って画面内に姿を現し、グンダの子豚たちを掻っ攫っていく。金属の板の向こうから、最初は鬱陶しいだけだった子豚たちの甲高い鳴き声が聞こえてくる。この瞬間、動物化した我々の身体を襲うのは、「子豚たちが可哀想」といったような理性的な判断ではない。何かしらの耐え難い断絶が起こり、前言語的な経験が今、目の前で起こったことを瞬時に、感覚的に察知するのだ。そして、子豚たちの鳴き声が機械とともに遠のいていくとき、観客は子豚たちが人間の手によって連れ去られ、これから屠殺されるのだろうということをようやく頭で理解する。その後、小屋から出てきてノロノロと徘徊するグンダの姿を見ても、さっき経験した言語化できないような感覚のみが身体の中に残り、グンダの姿をただ呆然として眺めるしか、できることは最早ない。
この映画は、「動物を食べるのは可哀想だからやめよう」とかいった類のイデオロギー的な作品では決してない。ただ、あの形容し難い感覚が、身体の中に蘇るたびに、「我々はもはや人間ではあり得ないのかもしれない」と、そんな考えが頭をもたげる。ここには、動物と人間の区別などもはやなく、存在するのは、不気味な音を響かせながら一定の速度で動くあの理解し難い機械と、攫われ喰われる側の動物のみであり、そんな世界において、我々は後者に位置するしかない。この映画はそんなシンプルな事実を、緻密な映像と音の設計によって観客の身体に刻みつけるのだ。