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January 31, 2022

『二重のまち/交代地のうたを編む』小森はるか+瀬尾夏美
鈴木史

[ cinema ]

kotaichi_credit.jpeg 冒頭、喪服のように黒い服を着た女が、人気の少ないバスに乗っている。車窓の外光はそこまできつくはない。それでも、なかばシルエットになりかけた彼女。窓の外を深い深い緑が流れていく。ふと目を凝らすと、彼女の服が黒ではなく、深い深い赤色なのだと気付く。わたしの目には、その赤い服が、薄暗がりのなかで、真っ黒の喪服に見えた。彼女は「旅人」だ。彼女は、多くの人が被災地と呼ぶ、その場所に向かおうとしている。
 『二重のまち/交代地のうたを編む』は、映画であると同時に、ひとつのワークショップである。瀬尾夏美はインタビューで、このワークショップのことを「夢の時間」と呼んでいる。2011年の大震災の時、まだ子供であり、距離としても離れた場所にいた4人の若者たちが、このワークショップの参加者だ。小森はるかと瀬尾は彼ら彼女らのことを「旅人」と呼ぶ。被災地に赴いた4人の旅人は、陸前高田の人たちの話を聞いていくのだが、その多くは震災で親しい人を亡くしており、いまはもうこの世界にはいない死者について語ることになる。この映画において、その生存者の語りは、あからさまなかたちで直接的に映されることはない。生者と死者、その二者関係の中に、第三者としての旅人が関わっていくことになる。
 旅人は、自身の口から発せられる言葉で、生存者が語ってくれたことを語り直そうとするのだが、言葉にすればするほど、生存者があのとき語ってくれた言葉から離れていくような気がすると躊躇う。それでも、たどたどしい発話と手の動きによって、語り直そうとなんとか試みる。わたしは、とある旅人の姿を見ていて、そこに奇妙なねじれが起きているような感覚に襲われた。それは、生者と死者という二者関係に、第三者として関わっているはずの女子高校生の旅人が、子を亡くした母の語りを語り直すとき、「わたしは母親になったことは無いし、むしろ子供の気持ちで考えたい」と、母を思いやる言葉を死んだ子供の立場から紡ごうとする瞬間だ。旅人は被災地の人々に対しては第三者である。そこには距離がある。だからこそ、どんなに理解しようとも理解しきれないという思いがあるために、注意深く、生存者の心中を気にかける。それがむしろ、死者が、残された生者に語りかけているような錯覚に襲われる。あたかも、あまり心配しないでと言っているかのように。無論、これはわたしの錯覚である。死者は語らない。それでも、日々生きるなかで、ほとんど不可能かと思われ、いつも諦めてしまいそうになる、他者の心中を察するという試みをスクリーンのなかに目の当たりにするだけで、わたし自身、もう少し、この星に、この時代にいようと思える。
 小森はるかの単独監督作である『息の跡』(2016)において、タネ屋の佐藤さんは、震災後の思いを、日本語ではない言語で語らざるを得なかった。日本語という、長く親しみ、身に染み付いた言語で震災のことを口にするのは、彼にとってあまりにも過酷な、身を切り裂くようなことだった。だから馴染みの薄い外国語で語ろうというのが、彼の初めの動機だった。『息の跡』のタネ屋の佐藤さんも、『空に聞く』(2018)のFMラジオ局の阿部さんも、わたしにとっては他者だ。しかし、語りたいけど語りたくないことを語るために、迂回を繰り返しながら言葉を紡ごうとする彼ら彼女らを見ていると、そこに自分の似姿があるような気がしてくる。『二重のまち/交代地のうたを編む』の旅人たちも、関わることで可傷性を持つ相手を切り裂くまいと慮り、彼らの言葉を語り直すことで彼らを切り裂いてしまうことを恐れ、そしてそれによって自分が切り裂かれることに怯えながら、それでも語ろうとする。その「夢の時間」を小森と瀬尾は本作で示している。
 少し自分語りをすると、筆者は宮城県出身で、2011年の震災時は首都圏に住んでいた。3月11日から3ヶ月ほど経ってから、小さなビデオカメラを携えて地元の町に帰ったのだが、隣駅の市街の建物は一階部分が波で流され、骨組みだけになっていた。瓦礫の上でサッカーをする子供たちがいた。わたしは恐る恐るカメラを向けてみた。ボールを蹴る子供たちの足が止まり、彼らがこちらをじっと見つめたとき、生まれ育った町にいるのに、自分がよそ者のように感じられた。その映像は、誰にも見せずに、部屋のどこかにしまってある。そのときのわたしは、迂回をせず、あまりにも直接に、その町と関わってしまったのかもしれない。
 瀬尾は言う。「ワークショップという夢の時間は、やっぱりきちんと覚めてから帰ってもらわなきゃいけない。そこまで映すのが、人間としての彼らをちゃんと見せるということなんじゃないかと思いました。」
 「夢の時間」が終われば、旅人は旅先を去り、観客も劇場を去ってゆく。そしてわたしたちの生活がはじまる。わたしはこの映画を見ながら、なぜか別の映画のことを思い出していた。 ダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に』(1959)で、肌の色が薄いがために、自身に黒人の血が流れていることを隠しながら、白人として生きているサラ・ジェーンのことを。働いているキャバレーの控え室を、黒人である母が尋ねてくる。同僚の目を気にして、サラは母を「知り合い」だと言い、ときに冷たいトーンで会話を続ける。ただ、母との別れ際、声にならない声で 「ママ」という言葉の形に彼女の唇が動いたときのことを思い出していた。 語りたいけど語りたくないことを語るための迂回。その迂回こそをわたしは見たいし、知りたい。

「第13回 座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」にて上映予定

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