『三度目の、正直』野原位×川村りらインタビュー
[ cinema , interview ]
映画がこの時代をえがくために必要なことを探して
野原位による長編デビュー作『三度目の、正直』は全編を通して驚きに満ちている。この登場人物はこういう人なのかと思ったら、次の瞬間にはその人がまったく別の人物に見えるほど印象が変わっていたり、最後まで謎に包まれた人物がいたり、毎シーン新しく映画と出会い直せるようだ。そうした魅力はどのようにして生まれたのか。制作過程、登場人物の造形や彼/彼女らにセリフを言わせる、あるいは言うことについての話題を中心に監督である野原位と主演、さらには脚本も務めた川村りらにお話を伺った。
©2021 NEOPA Inc.
──まずは『三度目の正直』というタイトルについて伺いたいと思います。
野原位(以下野原) 最初はまったく違うタイトルで、最後の段階でこのタイトルになったんですが、なかなかこういうことはないですね。最初は『トレランス(仮)』という仮タイトルでしたが、脚本が変わっていくなかで、もう『トレランス(仮)』ではないのではないかということをプロデューサーの高田聡さんと話していて、いろいろな代案が出たなかのひとつが『三度目の、正直』でした。これは撮影のときに偶然出た言葉でして、福永祥子さんという春のお母さん役を演じられた方が同じシーンを三回撮り直したことがあって、2回目の撮影が終わったときに「三度目の正直ですね」と言ったことがずっと頭に残っていたんです。
川村りら(以下川村) そのときは二度同じシーンを撮影して、私たちはそれで終わりだろうと思っていたのですが、福永さんが何を感じたのか三度目もあるわね、三度目の正直としてもう一回撮るわね、ということを予言するかのようにおっしゃったんです。
野原 タイトルを考えている時に、春(川村りら)は最初子供が生まれなくて、その後、蘭(影吉紗都)という別の人の子をある程度、自分の子供のように育てた。その子も離れていって、今回、記憶喪失の生人(川村知)に出会う。これは三度目の正直だなと、福永さんの言葉を思い出しました。ただ、その「三度目の正直」という言葉だけにすると少しキャッチコピーのようになってしまうので、高田さんにここに読点を入れたらどうかとご提案をいただきました。最初は『三度目の、正直』?大丈夫かな?と思ったりもしていたのですが、読点が入ることによって、今回の三度目は、何か立ち止まって考えさせるようなものとして見えてくる気がしました。ですので、今となっては良かったと思っています。
川村 ちなみにその撮り直したシーンというのは旅館のシーンです。
──そのシーンは印象に残っています。春が過去に祖父に性的な暴力を受けていたことを語ろうとして、事情を知らない生人が何があったのか聞こうとすると、春の母親から「生人は関係ないやろ」と言われる。幼少期に性暴力を受けていたというエピソードに関しては、映画の序盤でも、普通の会話の流れのなかで春が唐突に語り出すことに驚いたのですが、どのような意図があってあのタイミングでセリフを言わせたのですか?
©2021 NEOPA Inc.
川村 前半だけでも膨大な素材があって、それを削ぎ落としながらつくっていたんです。実はあの告白までにそれなりの積み上げもあったのですが、このシーンだけが残った結果、ポッと出たような印象になったのかもしれません。
野原 ただ、ポッと出てきたような印象があるかもしれませんが、案外重要な言葉は生きていく中では、こんなタイミングで出てくる?というようなことも全然あり得るものだと思います。映画においていきなり何かが始まる瞬間が僕はすごく好きなんです。いきなりのように感じるけれども、その行動をとる人物にとってはまさにこの瞬間なんだという場面を目指しました。あのシーンは北川喜雄さんがカメラで入っていて、セリフの意図を組みながらじわっとトラックアップで寄っていってくれて、うまくいったと思っています。演じる側のりらさんにとってはどうでしたか?
川村 最初に話したように、それまでに結構なシーン数が重ねられていて、自分のなかでは耐えに耐えて出した一言でした。だから観客の方にはどう見えたのかは、感想を聞くまでは正直分からなくて。
野原 たしかにその積み上げはあるんですが、それは映画の中にはなく、カットされた部分、つまり映画の裏側なんです。ただ、それがあることによって春があのセリフを画面の中で真実味を持って言うことができる。最初の試写の時に濱口竜介監督が見に来てくれて、見終わった後に、りらさんに「この作品は素材が大量にありますよね?」と聞いたそうです。りらさんが「そうです」と言うと、納得されていたらしいです。おそらく濱口さんが感じていたのは、ここまでの演技になっていくためには、画面に映っていないけれども積み上げられたものがなければ絶対たどり着けないだろう、ということだと思います。
──濱口監督の『偶然と想像』では、登場人物たちが、こういうこと言ったら人を傷つけてしまうかもしれないなということに気を遣った話し方をしていて、現代風に言えばポリティカル・コレクトネスに気を付けているような人物が多いように感じました。それと比較すると、今回の野原さんの作品では、よりダイレクトな言い方を登場人物がしている印象がありました。たとえば、映画の序盤、蘭が留学でカナダに行く前に食事を4人でする場面では、父親の宗一朗(田辺泰信)と春が、この子はそんなこと思ってないんだとか、この子はこう思ってるんだとか、決めつけるような言い方で口論をするという場面もあります。現実でも同じようなことはあるけれども、それがヴィヴィッドに抽出されているような会話のやりとりだと思いました。
川村 これは本当にセリフを書いてる人間の特性が出ているのだと思います(笑)。
野原 (笑)それはあるんじゃないですか。実際セリフというものはやはり体を通して出てくるものです。濱口さんのセリフは濱口さんの体を通して、幾重にもフィルターがかかった言葉として出てくるわけですけれど、ぼくらもフィルターはあるけど種類がだいぶ違いますし、もう少し直接的ですよね。
川村 エネルギーの発散のようなものを会話のなかに求めていて、できるだけ意味合いよりも先にそちらを感じてほしいというところもある。書くときにはそれが先行している気がしますね。
野原 付け足すと、濱口さんと『ハッピーアワー』で一緒に共同脚本もやったのですが、今回作る時に最初に考えたことは二時間以内にしたいということでした。『ハッピーアワー』で培ったことをやると、とにかく長くなってしまうので、そこから変えたいと思ったところもある。だから、会話が短く収まるような、直接的で強めの言葉のやりとりが多くなったということはあるかもしれません。りらさんと一緒にやりながらなので、二人の相性もあったと思いますが。もしかしたら『ハッピーアワー』を見て、似たような何かを期待して見に来ると、期待していたものと違うというような感想もあるかもしれません。でも、それはそれでいいと思っています。僕たちは『ハッピーアワー』の続きを撮りたいと思っていたわけではないので、その違いの部分こそ面白いと感じてもらえたら嬉しいです。
──セリフに関しては川村さんが書かれた部分が多いのでしょうか?共同脚本の執筆作業はどのようにおふたりで進めていかれたのですか?
野原 お互いにセリフを書いては交換して直すということを繰り返していたので、どちらがどのセリフを書いたのかがはっきりとはわからないですね。りらさんはどこが自分のセリフか覚えていますか?
川村 正直覚えてないです......。
野原 そうですよね。加えて、現場で出演者が実際にセリフを読んだ時に、このままではいけないと感じてしまう箇所もありました。基本的にりらさんは出ずっぱりで常に現場にいますから、その場で一緒に直したりもしました。結果、その変更が活きている箇所も多くあると思います。
──書かれたテキストと俳優がぶつかったときにやはり変えなくてはいけないと思うということですね?
野原 そうですね。テキストと出演者と、あとは場所もあります。出演者にしても、昨日と今日では違うこともあったりしますし、その場での微調整が必要になってしまうことがあります。本読みを重ねて、テキストも出演者の演技も練り上げていくというようなやり方をとればそうしたことは避けられるのかもしれませんが、今回は現場で微調整を加えるという方法になり、それは自分に合っているのかなという気もします。
──場所のお話でいうと、なぜ神戸という町を選択されたのですか?
野原 神戸は映画が撮りやすい場所だと個人的には思っています。映画のなかで明の実父である達(三浦博之)が「こっちが山でこっちが海」と言いますが、まさに神戸は北が山で南は海で、その間に都市が作られています。狭いエリアのなかで、いろんな顔がある。都市のようにビルが建っているところもあれば、ちょっと入り組んだ所に行ったらホン・サンスの映画などで見たことがありそうな古い煉瓦の通りもある。ちょっと山の方に行けば茂みのなかのシーンも撮れる。そのような土地の利がある気がします。『ハッピーアワー』の時に、ずっと付き添っていて神戸がいい場所だと発見したので、今回もやはりここがいいだろうと思いました。ただ『ハッピーアワー』のときに撮り尽くされていると思ったりもしたのですが、実際に撮ると当たり前ですけどいい場所がたくさんある。特に高低差がつけられることですよね。映画において高低差をつけられると演出も含めていろいろいいことがある。もっと神戸で映画が撮られてもいいのではないかと思います。
©2021 NEOPA Inc.
──やはり『ハッピーアワー』の時の経験が、本作にとってのシナリオ・ハンティング的な機能をしたということかもしれませんね。本作を撮るにあたってのロケハンもかなりされたのでしょうか?
野原 撮影直前にロケハンすることもありました。一番極端な場合だと、春と宗一朗が長い坂道をゆったり歩いていくシーンは、撮影する場所を前日の夜に僕が探して見つけたんです。シナハン、ロケハンは直前まで、時間があればしていましたね。ただ、その期間はスタッフのほとんどが神戸にずっといたので、場所が変わったとしても臨機応変に対応ができました。スタッフの大半が『ハッピーアワー』を経験してる方が多いこともあり、変わることに消極的な人があまりいなかったですね。
──川村さんは脚本を書くなかで、神戸の特定の場所をイメージしながら書くということはされてましたか?
川村 やはりぎりぎりまで場所が確定しないことがほとんどでしたから、特定の場所をイメージして書いたということはあまりありませんでした。一方で神戸では人の繋がりも既にできてたので、こういうシーンが撮りたいというなんとなくのイメージで書いたら、ロケーションをぱっと見つけやすい場所になっていました。こういうカフェで撮れたらいいなとか、そういうことを考えた時にさっと見つけられる。狭いということも利点ですし、撮影の許可を頼んだら承諾してくださる方が多いので助かりました。
──少し話が変わり音楽についてなのですが、基本的に劇伴はジャズ調で、劇中音楽としてはヒップホップが出てきます。どちらも元はといえば、黒人たちの始めた音楽であり、自分たちの置かれた状況に対して不満を表明するものという側面も強いです。それゆえに即興的な要素を持っている点も共通しています。そういったことを踏まえて印象的だったのは、終盤、美香子(出村弘美)と毅(小林勝行)が車に乗っている場面です。ラッパーである毅は実はそれまでフリースタイルでラップをしていたわけではなくて、美香子に書き起こしてもらいテクストになったものをバックトラックにのせて歌っていました。けれども、この場面や、その前の美香子が鏡に映る自分に向かい合っているシーンでは、彼女こそがフリースタイルを披露する。本当にフリースタイルで、自分の感情を言葉にしていくのが美香子のほうだったということに心を動かされました
川村 美香子のように鏡の前でラップをすることは、悩める男女すべての方にやっていただきたいなと思っています(笑)。
野原 鏡の前のシーンは僕と出村さんが本当にその場で言葉を考えています。僕がテキストを即興的に書いて、発する言葉の順番がぐちゃぐちゃになってもいいのでということを出村さんに話して、何度も繰り返し言ってもらってこの形になったので、出村さんの力も大きいと思います。それから、美香子の家としてお借りしたのは、3人のお子さんがいる方のご自宅だったのですが、そちらの奥様に、これは女性の心に響きますかねと質問したら、これならイケると思います、と背中を押してもらいました(笑)。
──鏡の前の場面以外にも、しりとりの場面であったりと、セリフがリズミカルに発せられるシーンが多かったと思います。ラッパーの小林さんを起用されたことで、そのように変化されたのかなと思いました。
©2021 NEOPA Inc.
川村 私自身は、小林さんが出演してくれるという時点で映画全体がヒップホップのようになればいいなと思っていました(笑)。
野原 (笑)そうですね、小林さんを起用できたことは大きいです。小林さんが最初に、セリフは覚えられんかもしれん、とおっしゃっていたのですが、それでもいいですということで出演していただきました。たしかに、セリフをガチガチに覚えさせると、小林さんの良さが消えていってしまう気がしました。そのことが撮影中にわかってくると、崩してセリフを言ってもいいと指示をしました。その即興性が全体に波及していったのかもしれません。小林さんは毎回相手の言葉を本当に聞いている。たとえば車内の美香子とのシーンは小林さんのセリフはまったく決めていなくて、美香子のセリフだけをぼくが箇条書きで書き、それに出村さんがさらに加えてくれました。それに対してリハーサルの時に小林さんが即興で合わせてくださったものをもう一度本番でもやっていただいています。
川村 とても相手の話を聞く方ですね。小林さんだから成り立ったシーンだなと思いました。
──ヤングケアラーや、春が介護施設で働いていていること、宗一郎が診療内科に務めていることなどケアワークの問題が多く出てきますが、意識して書かれたのですか?
川村 企画の当初はまだそこまで話題になってはいなかったんですが、脚本ができあがっていくにつれてケアの問題が社会問題として取り上げられるようになっていました。また、身近にもケアしたり、されなくてはならなかったりする人が多すぎて自然に書くことになったんだと思います。私が障がい者福祉の施設で働いていることもあり、やはりその問題が自分の中で染み付いていて、生活のなかに入ってきていたということはありますね
©2021 NEOPA Inc.
野原 現代を描こうとしたら、精神疾患などに触れないということはあまりイメージできなかったですね。実際、この映画でオファーする前に、ミュージックビデオの撮影の協力で小林さんに初めてお会いしました。本当にいい人で、その後に、光永惇監督が小林さんの活動と彼が抱える双極性障害について撮った『寛解の連続』(2021年)を見て、こういう経験がある方なんだというのを知りました。それをきっかけに、精神疾患というものがそもそもどういうものなのかということを考えました。今作では、毅の方を理解し難いと思う人がいても全然いいと思いますし、美香子のことがわからないという人がいてもいい。その境目は曖昧なものなんじゃないかと思っています。
──それぞれの観客によって見方に違いの出る映画だと思います。おふたりもそれを望んでいるのでしょうか?
川村 やはり人は誰しも一枚岩ではない。この人のことをもう少し知ってみたら、こういう部分が、こんな事情があるのかもしれないということが、一瞬でも接するときによぎるかもしれない。そのときに、この映画とよりよい関係性が築けるんじゃないかと思います。
野原 そうですね、観客によって多様な意見があっていいはずなので、いろんなことを感じてもらえたらなと思います。
川村 初見はとくに前半部分がわからなかった、どこに持っていこうとしているのかわからなかったという意見が多い印象です。でも2回目を見たらわかったという人もいる。必ずしもわかる必要もないのですが、何回も見て、いろんな印象を受けてくれたらありがたいです。
──演じるということについて伺いたいのですが、たとえばジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』(1974年)などを見ていると、精神的にバランスを失っていく主婦という役柄自体が心配になるのはもちろんのこと、演じているジーナ・ローランズ自身のことも心配になってしまいます。川村さんは今回ご自分で書かれたテクストを演じているわけですが、役柄とご自身との距離感はどうされていましたか?
川村 もう脚本を書いてる時点でだいぶ春に近づいてしまっていました。自分の感情的な部分や経験などを自然と入れていると思います。役柄が俳優自身に影響を与えてしまうことが何かなかったかと言われると、それは『ハッピーアワー』のときもそうだったんですが、後になってから出てくるものなので、今はわからないというのが正直なところです。ですが今回は、人物がより良く生きられるようには書いているつもりなので、俳優自身に影響を与えることが何かあったとしてもそんなに悪いことではないだろうと思います(笑)。ただ、一行のセリフを役者さんに言わせるということがとても責任のいることなのだと今回書いて感じました。
──生人という人物は、急に現れて、名前をつけられて、そのあとまた急に現れた父親に、過去を伝えられてしまう。それを受け入れざるを得ない、徹底的に受け身のキャラクターです。演出や、または演じる側も難しいと思うのですが、脚本の段階でかなり作り込まれたのですか?
©2021 NEOPA Inc.
川村 彼がどのような人間かわからないほうがいいと思ったんです。記憶があるかないかもわからないほうがいいと思っていました。
野原 生人が物語の中に現れたことによって波及していって、いろんな人の人生が動いていくという構造は考えていました。とはいえ、実際にそれを演じる川村知さんにとって、なかなか記憶喪失の役を演じるのは難しいんじゃないかと思ってもいました。これを演じるということについて本人に聞いてみたのですが、演じる時は本当に何も考えてないといつも言うんです。書いてあるテキストを読むだけと言っていて、天才的なところが彼にはあるんです。記憶喪失とはこのような感じなのかもしれないと出演者の側から説得力をつけていただいたところはありますね。シナリオの段階では、父親と息子のことを考えたりしている中で、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1984年)などを見直していました。父親が記憶喪失ではなかったですが、記憶喪失のような感じで出てきて、最終的に息子と会う。そういった様々な映画を見ているなかで、記憶喪失というアイディアも出てきたのかもしれません。
──生人を寄りぎみでとらえた比較的長回しのショットで映画は終えるというのは、どの段階で決められたのですか?
野原 編集の段階ですね。最初の編集では、春の別のシーンで終わっていて、生人のカットは別の場所で使う予定だったのですが、何度も編集していく中で、あのカットよりも映画を終えることができる強いものはないかもしれないと思いました。あとは、映画が終わる時になにかしら希望は残したい。絶望したまま終わりたくないと思っていたので、あのカットにしました。
──撮影の北川喜雄さんや飯岡幸子さんは今撮っているカットがどこに使われるかほとんどわからず現場で撮影していたということになりますか?
野原 そうですね。シナリオは一応あるけれど、変わるだろう、ということは察していたと思います。完成した作品を見た後に、編集頑張ったねと北川さんも飯岡さんも褒めてくださいました。おふたりは全然違うタイプのカメラマンなんですが、現場では、そのシーンで、目の前で起きていることをどう撮るのが一番いいのかということを共通して考えてくださっていたのでとてもやりやすかったです
──クレジットでも、AカメBカメではなく撮影監督としておふたりの名前が併記してあるというのは、人物と人物がぶつかり合うことで物語が進んでいくこの映画のことのようで面白いですね。
野原 そうですね(笑)前半は北川さんで、後半は飯岡さん、普通の現場ではふたりのカメラマンというのはなかなかないことですけれど、うまくいきました。
──春のもとを離れて海にたたずむ生人を映したラストショットに話が及びましたが、女性が子供を持つということがこの映画の物語の一番の推進力になっている気がしました。
川村 多くの方が子供を持つということに関して、悩まれていると思います。一度、そのような悩みを持った女性を描いた方がいいと思っていました。パートナーの子供を引き取ったりとか、実際に子供がいるけれどもそれが幸せなのかとか、そういった事例が周囲に多かったこともあり、様々なケースを織り交ぜながら書いています。
野原 春のこれからの人生を考えたときに『三度目の、正直』のラストは、彼女がついに子供を持てるとか、新しいパートナーを見つけるということでは終われないと思いました。本当にラストは悩みましたが、春ではなく生人で終わるべきだと考えました。
川村 次の世代が希望を見せてくれるということが一番大事だと感じています。生人、あるいは明で最後は終わってほしいと考えました。春が答えを見出したということ以上に、そうすることがこの時代には必要だと思いました。
2021年、12月15日(水)、渋谷
取材・構成:鈴木史、荒井南
協力:梅本健司、結城秀勇
野原位(のはら・ただし)
1983年8月9日、栃木県生まれ。2009年東京藝術大学大学院映像研究科監督領域を修了。修了作品は『Elephant Love』(09)。共同脚本・ プロデューサーの『ハッピーアワー』(15/濱口竜介監督)はロカルノ国際映画祭脚本スペシャルメンションおよびアジア太平洋映画賞脚本 賞を受賞。また共同脚本として黒沢清監督の『スパイの妻』(20)に濱口監督とともに参加。劇場デビュー作となる『三度目の、正直』が第34回東京国際映画祭コンペティション部門に出品された。
川村りら(かわむら・りら)
1975年11月5日生まれ。濱口竜介監督の『ハッピーアワー』(2015)で俳優デビュー。2015 年、同作で第 68 回ロカルノ国際映画祭 Concorso Internazionale 最優秀女優賞を 受賞。また、本作『三度目の、正直』では共同脚本も担当している。他出演作、共同脚本作品に短編『すずめの涙』(2021/野原位監督)がある。
三度目の、正直 Third Time Lucky
2021年/ 112分/ 日本/ カラー/ ビスタ / 5.1ch
監督・編集:野原位
脚本:野原位、川村りら
撮影:北川喜雄、飯岡幸子
録音:松野泉
出演:川村りら、小林勝行、出村弘美、川村知、田辺泰信、謝花喜天、福永祥子、影吉紗都、三浦博之
1月22日(土)シアター・イメージフォーラムほか全国ロードショー!