『暴力の街』ジョセフ・ロージー
千浦僚
[ cinema ]
初期ジョセフ・ロージー映画とは、明晰な理念と的確な演出を行いうる手腕が、それをもってしても処理不可能になる複雑で困難な主題に相対し、苦闘したさまの記録ではないだろうか。ある種の類似を持つ『暴力の街』(1950)と『M』(1951)などを立て続けに観るとそう思う。
そういう重みのある『暴力の街』の脚本を書いたのは、ジェフリー・ホームズGeoffrey Homes=ダニエル・マンワリング(メインウェアリング)Daniel Mainwaring 。この脚本家については、2010年、アテネ・フランセ文化センターでの催し「アナクロニズムの会 第4回」において映画研究者の上島春彦氏が「ダニエル・マンワリングのスモールタウン・ナイトメア」と題し講演を行なっている。
その際のチラシの惹句を以下に引く。
「無実の罪で排除される恐怖もあれば、有罪なのに告発されず大衆の前に顔をさらされ続ける恐怖もある。ダニエル・マンワリング(別名ジェフリー・ホームズ)が描いたのは、全員が顔見知りの田舎町に展開される、そんな悪夢の諸相ではなかったか。ドン・シーゲル『殺し屋ネルソン』『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』『裏切りの密輸船』、ジャック・ターナー『過去を逃れて』、ジョゼフ・ロージー『暴力の町』、アイダ・ルピノ『ヒッチハイカー』等のフィルムに脚本を提供しながら、自身はやがて酒に溺れ第一線から退いていくことになる脚本家の「知られざる」傑作を通して、50年代黄金期アメリカの裏側を見てみたい。いや、それが実は裏側ではなく超大国の真実の姿であることに、映画を見終わったあなたは気づくことになるだろう」
また映画研究者木全公彦氏もこの講演があったことに重ねて脚本家ダニエル・マンワリングとフィル・カールソン『無警察地帯』を紹介している。
※ コラム『日本映画の玉(ギョク)』Jフィルム・ノワール覚書③『暴力の街』とその周辺
これらの評が既にこの脚本家が描く世界の悪夢性、陰惨さへの傾斜を充分解説してくれているが、いま一度ここに記すならば、マンワリングは1902年生まれ、77年没、記者などを経て1932年にプロレタリア小説「One Against the Earth」を発表。これはカリフォルニアの牧場で生まれたのちに流れ者になり、やがて子どもを襲ったと誤解され、不当に非難される青年を描いた物語だそうで、『暴力の街』も実は得意のムーヴの再現、主題の変奏と思える。マンワリングはこれ以降ジェフリー・ホームズ名義で、30年代から40年代半ばまでをミステリーやハードボイルドの書き手として過ごしつつ、41年頃からは自作小説の映画化の際に脚本に関わり、徐々にその仕事を小説から映画脚本にシフトさせていく。46年刊行の「Build My Gallows High」が彼の最後の長編小説であり、この映画化がジャック・ターナー監督作『過去を逃れて』(47年)である。
聞き書き伝記「追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー」(ミシェル・シマン著、中田秀夫、志水賢 訳)のなかでロージーは、自身と同じくアメリカ文化を愛しながら(その創作活動によるアメリカ批判によって)赤狩りに苦しんだ者としてマンワリングに言及している。ただ、正式な?レッドパージ・ブラックリストにはハメット、ロージーとは違って、マンワリング(あるいはホームズ)の名はなく、実際50年代に顕名で執筆できているのでロージーの言はその時代、その出来事に苦しんだという情緒的なものを示すのだろう。
『暴力の街』The Lawless はマンワリング=ホームズが書いた短編"The Voice of Stephen Wilder"「スティーブン・ワイルダーの声」を基にしているとのこと。映画ではマクドナルド・ケリーが演じる主人公のジャーナリストの名はラリー・ワイルダーと若干変わっている。とはいえ見進めないとその中年ジャーナリストが主役であるとわからないし、そもそも開巻しばらくは出てもこない。
映画はもうひとりの主人公である、ラロ・リオス(オーソン・ウェルズ『黒い罠』にエイキム・タミロフの甥の役で出演している)が演じるポール・ロドリゲスと、モーリス・ハラ演じるロポ・チャベスという果物摘みで日銭を稼ぐヒスパニック系青年の日常を示してゆく。展望の持てない暮らし、車の事故によるいざこざでわかる地元白人社会との階層差と投げかけられる侮蔑。ここでポールのほうが温和な性質で、従軍経験もあり年長のロポが社会への失望もあって刺々しい人柄とわかる。
ヒスパニック系の若者らが主催し、白人らも招くダンスパーティが開かれる。ラテンなムードが出されているが、レコード再生にパーカッションなどのライブ演奏をかぶせている。こういうスタイルはよくあったのだろうか。面白いと思う。
その会場に集うかたちでそれまで点在して描写されていた登場人物らが一堂に会する。民族融和の夢が叶うかのようでもある。ゲイル・ラッセルが演じるスペイン語週刊新聞の女性記者・編集者(印刷もしているし、発行人も?)のサニー・ガルシアと、都落ち記者ワイルダーの出会い。彼女がワイルダーを遇する様がちょっと島耕作っぽい感じでキショいのだが、間もなく会場は荒れる。
ポールとロポの二人組のうち、戦闘的なプロフィールを持たず、穏やかで平凡な夢を持ち、優男というか少年然としたポールのほうが白人青年と揉め、出動してきた警官を知らぬうちに殴り、車を奪って逃走し、捕らえられた後にまた脱走し、少女を襲ったとされてしまう。彼は終始泣き顔だ。この配役や演出が的確としか言いようがない。物語は大きく悲劇的なほうに曲がってゆく。ダンス会場でケンカが始まる瞬間のポールの母親の声なき叫びのワンカットといい、瞬間瞬間の緊張感が高い。
記者ワイルダーの正義感、やる気に火が着くのが遅く、そこにいちいちサニーの"いい子、いい子"みたいなお褒めの対応が入るのは気恥ずかしいが、ここで一度、尊敬するジャーナリストとして名を覚えたというサニーの視点と問いかけで、ヨーロッパで活躍までしたワイルダーの蹉跌が明かされていくところ、やはりシナリオも書き込めているし演出もうまいと思う。おそらくワイルダーは44年のワルシャワ蜂起の失敗を目撃し、失望を抱いている。滞欧経験があり、政治信条の高揚と失意を経験している人物像について、本作の演出家に理解の及ばぬ点はないはずだ。
ポールが一度逮捕されたあと、護送するパトカーが事故り、柔和だった護送の警官が死に、大破炎上するパトカーのそばでもともと彼への敵意をむき出しにしていた暴力警官から憎悪を向けられる。隠れた先でびっくりした少女が材木に頭をぶつけて昏倒し、彼が少女を襲ったとされる。
これはもうほとんどルイス・ブニュエルの映画を観ているような感じ。メキシコのスラムにおける不良少年の残酷群像劇『忘れられた人々』(1950)と、その死を想像するだけで相手を殺害してしまう男の回想『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』(1955)なんかを掛け合わせたようなシュールな悪夢が展開し、無害な青年がヘイトクライムの恰好の標的として狩られ、追う白人大衆は私刑への期待に舌なめずりする。
ワイルダーは同僚の煽情的な報道を見過ごすかのような感じだったりもするが、肝心なポイントでは火線に身を挺してポールを救い、反ヘイトの輿論を喚起すべく記事を書く。その結果は......。
本作のなかで、アメリカ映画の題材のうちでとりわけ巨大な二題、「私刑主義(ヴィジランティズム、自警団思想)」と、「ジャーナリズム」が衝突した感がある。これは製作者たちが企図したことだろう。かろうじて危険な騒乱は去り、一人の青年が救われ、機関が破壊された。だがなおも廃墟の前で衆に告げねばならない。恥を知れ、と。見事な物語だと思う。
終幕近く、ポールを送っていったワイルダーが礼を言って去るポールを見守る姿は、映画の中盤、逮捕後のポールが父母と面会し抱き合うのを見守っていたのと一致する。他者を理解する心や友愛とは深度ある画面を透徹させることか。
最後にワイルダーがたどり着くのは、ゲイル・ラッセル演じるサニーが出している週刊新聞のオフィス(兼 印刷所)だ。新聞の名は「ラ・ルス」。スペイン語で「光」という意味。男は再起するだろう。だが、長編二作目でここまでの栄枯盛衰、禍福倚伏を顕してしまった監督ジョセフ・ロージーのその後はどうなるのか。どうなったのか。