『パワー・オブ・ザ・ドッグ』ジェーン・カンピオン
大内啓輔
[ cinema ]
思い返して何より忘れがたいのは、アナクロニックなカウボーイのフィルを演じるベネディクト・カンバーバッチの手のことばかりである。妖艶という言葉がぴったりな美少年のピーター(コディ・スミット=マクフィー)が作った精巧な紙の造花を指でいじる、あからさまな「陵辱」のシーンをはじめとして、血のついた手で手紙をしたため、素手で牛を去勢し、皮をなめて縄を編むフィルの手仕事が、クロースアップによって頻繁に映し出されていくからだ。
しだいに明かされるように、無骨さを絵に描いたようなフィルの本性とは、イェール大学で古典を専攻し、バンジョーを巧みに奏でるインテリとしてのそれであり、その「男らしさ」への過剰な信奉も、同性愛者であることが暴露されることで、その意味合いを大きく変化させる。フィルの不安定な内面は、男女の愛の営みの場であるはずの寝室で強い不安に苛まれているフィルの顔を小刻みに揺れるカメラで捉えることでも表現されるのだが、むしろそのアンビバレントな様相を的確に把捉しているのは、その手であるように感じられる。フィルがいかにも古き良き「男らしさ」を誇示しようとも、その虚勢はクローズアップで捉えられた手によって暴かれていく。ピーターを揶揄しながら花を触る手つきは「陵辱」と呼ぶには控えめで、フィルの隠された心の揺らぎを見せていたのではないか?
この手に集約された倫理とは、目に見えているはずのものが、見えているようには存在していない、ということだろう。そのことは全編を貫くテーマともなるのだが、フィルが山脈を指差してピーターに「見え方を変えれば別のものに見える」と会話する場面で端的に語られもする。ここでは、ピーターは百も承知と言わんばかりに「初めから口を大きく開けた犬に見えていた」とフィルを出し抜くのだが、彼が医学部志望で解剖学に心血を注いでいることも偶然ではない。彼もまた手仕事の人であることによって特権的な目を与えられているのであり、フィルの隠された素顔を覗き見る権利を手にしているのである。
それゆえに、ピーターによるフィルの犬の力からの解放も、手を通じてもたらされることも必然の理というべきだろう。ピーターがフィルにタバコを吸わせるさりげない仕草にも、その小さな顔に対して不釣り合いに大きく映る手がどきりとさせるのだが、フィルがピーターと過ごした一夜は、まさに手を通じた愛の交歓の儀式となる。「男らしさの神話」をめぐる、手の引力による力学こそ、本作の何にも代え難い魅力なのだと思う。