『奥様は妊娠中』ソフィー・ルトゥルヌール
渡辺進也
[ cinema ]
C)DR
『奥様は妊娠中』には、2回の出産シーンがある。1度めは、世界的なピアニストである、妻・クレアが海外ツアーのために乗った飛行機の中で、夫で彼女のマネージャーであるフレデリックが、出産を迎えようとする妊婦の手助けをする。お客様の中にお医者さんはいませんかというアナウンスに応じて、その場になぜか居合わせた彼は、出産間近の女性に励ましの声をかけ、そして無事生まれた赤ちゃんを母親に見せるために受け取る。その時、彼は我を忘れてしまったように、その赤子の顔をまざまざと見つめてしまい、母親に渡すことを忘れてしまう。その時に一体彼に何が起こったのか。それは、その後、クレアに内緒で、妻に妊娠をさせるという愚かな行動を起こさせる(クレアが定期的に飲んでいる避妊薬をすり替える)。ずっと押さえていた子供が欲しいという思いが爆発してしまったのだと言葉で書くほどに簡単に説明できない、理解し難い、あるいは理解したいとも思えない、愚行を犯すこの男を捉えて離さない何かが、この1度めの出産の場面で起きている。
一方、クレアは妊娠という、それが起こることなど想像もつかないことを、起きるはずのないことを、自らの身体を持って知ることになる。しかし、自分の身体に起きる変化は否定のしようがない。胸囲が増し、お腹は巨大化し(実際以上に膨らんで見える)、ピアノの鍵盤に手が届かなくなる。それまでもマネージャーとして、ピアノに専念するために、ホテルとのやりとりやスタッフの交渉など身の回りの世話をしてくれていたフレデリックの行動はクレアが妊娠してからも変わらないが、その行動はまるで自らが妊娠しているかのように、妊娠について調べ、講習に参加し他の妊婦と仲良くなり、出産の方法をも決めてしまう。その身体もなぜか大きくなっていく。ふたりの役割分担、クレアが生計を支え、クレアをフレデリックが支えるという妊娠以前のお互いの関係性は、その後もその延長線上にありながら、しかし矛盾を抱えたままに行き過ぎたものとなる。この映画の原題である、énormeは「巨大な」とか、「非常に大きな」という意味を持っているが、それはクレアの(あるいはフレデリックもの)身体の巨大化と共に、フレデリックの行動の過剰さをも表しているように思われる。
つまり、この映画の持つ命題とは、愚行を犯すフレデリックを捉えて離さない何かをいかにして受け入れるか。そして、巨大化していく自分の身体、あるいはその環境の変化をいかにして受け入れるかということになるのではないだろうか。その突拍子のなさ、過剰さはアクションのコメディ、身体のコメディをも生んでいる。
ところどころに人々の顔が挿入される。それは、ふたりの話を見つめる看護師の顔であったりと、それ自体が何かを意味しているものではない。ただ人の話を聞いている時にふと人が見せる何でもないような顔なのだが、それがとても印象に残る。クレアとフレデリックの過剰さに対置するように置かれているようでもある。『奥様は妊娠中』では、俳優業を生業としていない人たちが多く出演しているのだという。つまり、映画の中で病院で働いている人たちは実際に病院で働いている人たちであり、フレデリックの母親として出演している女性は実際のフレデリックの母親である。クレアとフレデリックを演じる俳優は病院や家族との関係の中で、実際のシチュエーションの中に置かれているということだ。ドキュメンタリーの中のフィクション、フィクションの中のドキュメンタリー。そのふたつの対置は次のような監督の言葉からも窺われる。
病院のシーンでは、切り返しの方法で、ドキュメンタリーの画面と即興の場面とをそれぞれの人物だけをフレーミングして撮影しました。病院のスタッフとのシークエンスはすべて即興で撮影されました。この映画の課題は、ドキュメンタリーとフィクションの間に人工的な連続性を持たせて編集をすることでした。技術的な点から、ある場面では、ドキュメンタリーショット(例えば、コンサート、診察、出産の場面など)が、「切り返しとなる」フィクションのショットを決定していました。この選択によって、シチュエーションの超現実性とストーリーのバーレスクな喜劇を対峙させることができたのです。(『奥様は妊娠中』プレスキット掲載のインタビューより。)
二度めの出産シーンは、クレア自身の出産シーンになる。病院の一室で、フレデリックが横で見守る中、病院のスタッフが出産の進行具合を交代しながら確認にやってくる。ひとり、ふたりとスタッフがやって来、やがて出産のシーンが始まる。フレデリックの視点だろうか、ベッドの横から広げた両足の間から産道を見つめるスタッフの姿を映す。その姿には余裕さえ感じられ、エコーの音をバックミュージックのようにしながら、進行具合を他のスタッフと確認し、クレアやフレデリックに気遣いの声をかける。何分も続くその出産の場面は本当に感動的だ。新たな命が誕生するということ共に、この映画が持つドタバタしたストーリー、過剰な喜劇を、実際の病院のスタッフが助けてくれているようにも思えるからだ。こう言い換えてもいいかもしれない。フィクションそのものを現実が助けてくれている。そのことが本当に感動的である。人は自分たちの力だけで全てを解決できるわけではない。個人の問題、あるいは夫婦の問題、そうした自分たちの中で大きくなってしまった問題もそのことに精通した人々がちゃんと助けてくれる。すごく当たり前の教訓のようなことをこの場面は思わせてくれる。
出産後のクレアは、ひとりコンサートに向かう。いつもホールに付き添ってくれていたフレデリックの姿はない。しかし、彼女のピアノの周囲には、それまでひとりで演奏していたのとは違い、オーケストラの人々がいる。まずクレアの独奏が始まり、それを聴いているオーケストラの人々の顔が順番に映し出される。緊張しているのか少しこわばった顔で、決して勇ましいわけではない。しかし、そこにフルートの音が聞こえ、バイオリンやさまざまな楽器の音が聴こえてくる。この場面を見ると、いつも涙が止まらない。