『都市とモードのビデオノート』ヴィム・ヴェンダース
鈴木史
[ cinema ]
「君はどこに住もうとも、どんな仕事をして、何を話そうとも、何を食べ、何を着ようとも、どんなイメージを見ようとも、どう生きようとも、どんな君も君だ。人、もの、場所の"アイデンティティ"。 "アイデンティティ"......。身震いがする、嫌な言葉だ」
監督であるヴィム・ヴェンダース本人の語りで幕を開ける本作は、彼によって撮られたエッセイのような映画だ。この企画はポンピドゥー・センターにより「ファッション」をテーマに作品を作って欲しいとヴェンダースに持ちかけられたものだが、彼自身は、乗り気ではなかった。しかし、ファッションにも何か映画と共通するところがあるのではないかと思い直したことと、ひとりの人物への関心から、彼はこの映画の企画に取りかかることとなる。その人物の名は、山本耀司という。
はたしてどれほどの人が、山本耀司という名前を聞いてピンとくるのか、わたしにはわからないが、国際的なファッションデザイナーである彼は、同時期にファッションの世界を席巻した、ISSEY MIYAKEの三宅一生、COMME des GARÇONSの川久保玲と比べ、メディアへの露出が多いように思う。だから、「ヨウジヤマモト」の名前くらいは、ファッションに関心のない人でも聞いたことはあるかもしれない。山本の、自分自身の姿を世界に晒そうという姿勢は、同じく「黒」という色で同時期に注目を集めた、川久保玲の極端にメディア露出を嫌う振る舞いとは対照的ですらある。女性身体を包み込んで、まさに「COMME des GARÇONS」(男の子みたいに)にしてしまう川久保の服は、まなざしへの抵抗であり、それは多くの場合、男性が女性に見る観念的なイメージへの抗議だったのだろう。川久保が、デザイナー自身の名前をブランド名とするファッション界の慣例的な振る舞いを避けたことも、彼女の意味深長な思考を物語っている。対して山本は、ヴェンダースのフィルムカメラとデジタルビデオカメラのまなざしの前に、その姿を積極的に晒す。ヴェンダースが山本に見出すアイデンティティと、山本が自分自身に見出すアイデンティティは当然違うだろう。山本とヴェンダースが対話をするビリヤード場のシーンはさながら、カメラのまなざしを武器とする映画監督と、まなざしへの盾としての服を作る服飾デザイナーの決闘のようだ。ビリヤードに興じるふたりの、いかにも「男の子たちのやりとり」という感じの、くだけた、フランクな会話。しかし、そこで行われているビリヤードというゲームは、勝ち負けがある駆け引きなのである。山本はヴェンダースに、自身の姿を提示し、過去を語り、ときには「デザイナーをやめたら、別のことをしたい。女性絡みのことがいい。ヒモになりたいな」と軽口を叩く。ヴェンダースは、そんな山本耀司を真に受けることなく、適切な距離を保ちながら、彼にフィルムとビデオで批評を加えていく。さらに、その批評的なまなざしは、フィルムカメラとビデオカメラという二つの形式で分裂的に撮られたこの映画そのものへも向けられることとなる。
映画の中盤、店舗の改装が終わり、山本が看板に「Yoji Yamamoto」と自身で署名をするシーンがある。最初は彼の署名をする後ろ姿がフィルムカメラで撮られている。しかし、その後に続く、何度書いても、なかなかしっくりこない様子で、繰り返し同じ自分自身の名前を書きつける山本の姿がビデオカメラによって映されている。名前を書くという同様の行為が、荒々しいビデオカメラの映像で反復されることにより、ヴェンダース自身が映画内で語るように、電子によるイメージはオリジナルのネガを持たない無数のコピーであることが強調される。そのシーンはまるで、山本の作る服も所謂プレタポルテであり、無数のコピーであることを物語っているかのようだ。プレタポルテは、オートクチュールとは違う大量生産の既製服を意味するが、日本のファッション業界でプレタポルテといえば、多くの人が、山本の作るような、「高級な既製服」をイメージするだろう。一方、ヴェンダースのビデオカメラはあくまで、粗雑な荒々しい画質で、高級なイメージとは程遠い。その意味では、ヴェンダースのビデオと山本のプレタポルテは異なるとも言えるかもしれない。だが、ヴェンダースは、ビデオカメラで東京を撮るうちに、この街には電子のイメージこそが相応しいと感じるようになり、「聖なる」セルロイドのイメージは適切ではないのではないかという感慨にとらわれるようになる。セルロイドの、すなわちフィルム独特の質感に伴う「聖なる」感覚は絶対ではなく、ビデオも独自の映像言語でこの世界をとらえていたことに、彼はショックを受ける。たしかに、粗雑で荒々しいビデオカメラの映像がフィルムの映像と比べて、高級ではないと誰に言えるだろう。ヴェンダースのビデオカメラと山本のプレタポルテは、映画が進むにつれて、相似形をなしていき、わたしたち観客に知的な興奮を喚起させる。
わたしは、一着だけヨウジヤマモトの服を持っている。女性用コレクションのセットアップのパンツスーツだ。黒と緑の合間のような深い色のその衣服はわたしの身体に適合し、まさにプレタポルテなイメージをわたしに与える。高級で、しかしオリジナルではなく、どこか既製のイメージ。わたしは、その服を着て行くとき、場所や状況を選ぶ。それはわたしの、痩せぎすで、やや骨格のはっきりしている身体が、目立ってしまうからだ。ふだんなら、ひとのまなざしを避け、ありきたりのややフェミニンなワンピースなどを選ぶ、そうすれば、誰もわたしを見ない。しかしわたしは、山本の作る服がときに着たくなる。安心できる友人の前では、七部丈の袖から覗く、骨張った細い腕を、ときには見せたくなる。そのとき、わたしは、わたしの身体を、荒々しい粗雑なビデオカメラの映像が美しいと思うように、美しいと思える。このようなわたしの中の分裂と、フィルムとビデオに引き裂かれたこの映画が呼応する。
ロザリンド・クラウスは、論考「ヴィデオ ナルシシズムの美学」の中で、ヴィト・アコンチのビデオ作品《センターズ》について、画面の中心を指さすアコンチが、目の前に置かれたテレビ受像機を鏡のように用い、自分自身の映る映像を確認しながら、画面の中心から指を外さないようにしていることを指摘し、それをナルシシズムという観点から論じている。『都市とモードのビデオノート』において、ビデオカメラに懐疑の目を向けていたヴェンダースさえも、小さなその電子のカメラとたわむれるあいだに、思いに反して楽しくなってきたと言い、自身の手のひらを撮ったりする。セルフィー。自撮りだ。自身の身体とは何なのか? それを覆い隠す布とは何なのか? それを撮るカメラのまなざしとは何なのか?
山本は、ヴェンダースのビデオのまなざしに、くだけたようで、朴訥なようで、しかしどこか気取ったようでもある曖昧な自身を提示する。わたしは、山本の服が好きだが、彼自身が纏うナルシシズムの影のようなものは、常に気になっていた。山本は戦争で父を失い、近所相手の洋服の仕立て屋だった母に育てられた。母にとって社会は男性の天下だったため、山本は子供の頃から、母を守らなければならないと思っていた。だからこそ山本は、女性に捧げるように服作りをするのだという。そして、そのときの気持ちは"Can I help you."という感覚だと語る。はじめにその言葉を聞いたときに、わたしは少なからず暗鬱な気持ちになった。「お役に立ちましょうか?」というのはなんだか思い上がりみたいだと。しかし、そう訳されることの多い、その言葉を、わたしはもう一度、心の中で直訳してみる。
"Can I help you."
「私はあなたを助けることができるでしょうか?」
小柄で、はにかみ屋の少年のような彼も、多くの女性たちの中で、自分自身のまなざしと、自分自身に向けられるまなざしとの距離を測りながら、曖昧な不安の中で、自分にできることを探しているのかもしれない。
ヴェンダースはこの映画を、ビデオカメラで映した電子のイメージの中でもっともお気に入りだという「作業中の守護天使たち」の映像で終わらせる。それは、山本とともに仕事をする女性たちが、型紙にペンを走らせ、はさみを入れる、その手のイメージだ。屈託のない表情で自分の仕事をする彼女たちの手の動きは、あたかも山本にかけられている、"Can I help you."という声そのもののようだ。
ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ「ROAD MOVIES/夢の涯てまでも」
3/12(土)〜3/25(金)、下高井戸シネマにて絶賛特集中!