《第17回大阪アジアン映画祭》『エンクローズド』ヤン・イー(楊翼)
養父緒里咲
[ cinema ]
オイディプスが描かれた絵画のパズルを解く少年フリオ(アシュトン・ミラモンテス)は、失くした最後のピースを家政婦のエイプリル(タリア・マーティン)と探すことで、彼女との限られた時間の中に身を投じる。ただしこの偶然のひとときは、言わば必然のように感じられるものでもあり、むしろ偶然を装った行為であったことがのちに暴かれていく。それは失くしたものを口実とした時間の引きのばしであるとともに、エイプリルに対するフリオの淡い恋心が、その行為を呼び寄せているようにさえ思えてしまうからだ。
しかし、ここでギリシャ神話を引き合いに出すならば、パズルに描かれたオイディプスは予言の成就を避けることであえて盲目になり、存在するはずの事実(殺した男が父、妻にした女が母であること)から逃れようとする。それ故にオイディプスは、辿るべき宿命から逃れることができなくなってしまうわけである。だからフリオがベッドの下で最後のピースを発見することは、そうした「オイディプスの宿命」を全うし、その神話の環の中に組み込まれてしまうことを暗示している。だがその末路に待っているのは、紀元前400年以上も前にソポクレスの手によって描かれた悲劇ではない。エイプリルによる愛撫と彼女のある秘密を知ることで、オイディプス王の宿命とは一線を画した流れへと導かれていく。
愛撫されたフリオの目には、エイプリルの腕の痣と、彼女の涙がはっきりと映る。かつての恋人から受けた暴力の痕跡を受け止めることで、少なからずフリオは自分の窺い知ることのないエイプリルの現実を直視するのだ。その一方、エイプリルによる愛撫はフリオの知らない、だが確実に存在する現実への想像力を与えることになる。この想像力とは、エイプリルの生活と隣り合わせにある暴力の存在を知ることであり、彼女が流した涙の意味を汲み取ることに他ならない。こうした現実を突きつけられたとき、彼が招いた必然なる状況は、同時に自身とその周りの者たちを守る術に気づくことへと繋がるのだ。
『エンクローズド』は、フリオが想いを寄せるエイプリルとの関係性を通じて、フリオの認識可能な世界の広がりとともに、「オイディプスの宿命」という大きく肥大した環の中から、彼自身を救い出すためのひとつの可能性を試みている。つまりオイディプスという歴史そのものにも似た壮大な円環全体を動かすのではない。その円環の中に生じた揺るぎなき事実の瞬きを通して、オイディプスの周りにいる者たちのために、そしてフリオだけでなく私たちのために、既成の円環から離脱させていく必要があることを提示したかったのではないだろうか。