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April 1, 2022

《第17回大阪アジアン映画祭》『あなたの顔の前で』ホン・サンス
荒井南

[ cinema ]

SS1_In Front of Your Face_main.jpeg もはや「韓国」というより「世界の」という枕詞で語るべきホン・サンスのプロリフィックな作品群の中で、近年目を引くのが死の匂いを感じさせるフィルムたちだ。老詩人がとあるホテルを死に場所として選び、人生を終えるまでのモノクロの記録『川沿いのホテル』(2018)は言うに及ばず、『あなた自身とあなたのこと』(2016)では主人公の画家が死の床にある自身の母親についてつぶやき(2015年に実母を亡くしているので、自身の体験に基づいていると思われる)、ホン・サンスのフィルモグラフィ史上最も女性の力強い足取りで終幕する『夜の浜辺でひとり』(2017)ですら、キム・ミニ扮するヨンヒにまとわりつく黒い影は何やらあらぬ世界の住人のように思えてならない。だが一方で、酒と煙草、そして女と男の横顔というアングルで人生への微笑と苦笑いを表現してきたホン・サンスが、死のモチーフに惹かれているというのも頷ける。当然ながら死とは生に対する究極のアイロニーだ。だからこそ近年より旺盛になる創作意欲とは、彼のとめどない生への邁進の現れなのかもしれない。
 日本での公開が待たれる『Introduction』(2021)と『The Novelist`s Film』(2022)とのあいだに連なる『あなたの顔の前で』(2021)。ジョンオク(イ・ヘヨン)は映画出演の経験もある女優だが、今は一線を退き、母国の韓国から離れて暮らしている。帰国したのは、自分を主人公に映画を撮りたいという監督に会うため。この手段というのが実に異質だ。映画監督からジョンオクへの連絡は、SMSやカカオトークではない。メッセージを音声で残しそれを聞くという手法であり、この演出は、カットの手数を減らしよりミニマムにするためであろうが、話すトーンと言葉が密接に結びつくことにおいて、音声言語はより完成されたシニフィアンであり、声を吹き込む瞬間と聞く行為が一致しないことからも、相互の感情が同様に微妙にズレていることを示す。ムードとタイミングのズレによる気まずさと、だからこそ紡がれ出る物語にこだわり続けてきたホン・サンスの新たな手並みがまた生まれたのだ。
 オープニング、私の顔の前にあるのは神の恩寵であるという彼女のモノローグが差しはさまれるように、体に重大な病を抱えている彼女はしばしば、独りで黙考し、感謝や祈りを捧げる。しかしこれは宗教の話ではなく、ましてやキリスト教や仏教といった固有の神の話をしているのではない。ジョンオクは過去に、街行く人々の顔が輝き、天国が見えたという話を熱弁する。輝く顔と聞いて、私は『それから』(2017)のタクシー車内で、雪あかりに照らされたキム・ミニの顔を思う。この映画の中で彼女が口にしていたのは「私は大丈夫ということ」だった。『それから』『あなたの顔の前で』でも(というよりホン・サンスの映画全般で)挿入される酒席での問答では、盛んに純粋さ、誠実さが語られる。大丈夫というのはつまり、自身の内面に何者にも付け入る隙を与えないことであり、純粋で誠実で、それを持ち合わせているということではないか。そう思うことが、ジョンオクの信仰なのである。この後、例によって映画監督と艶っぽい展開になっていくけれど、それは決して映画の品を毀損しない。信仰とは何か、純粋とはどういうことかをホン・サンスなりに再定義する。感動するのは、その純粋さ、誠実さはタイトルが意味するように、"あなた"と語りかけられ、我々の側に開かれていることだ。あなたは誠実であるのか。あなたは純粋であるのか。そう問うてくれる映画に、私はめったに出会えないだろう。

第17回大阪アジアン映画祭にて上映

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