《第17回大阪アジアン映画祭》『柳川』チャン・リュル
荒井南
[ cinema ]
『柳川』は冒頭からスペクタクルに富んでいる。カメラは上から下へくぐるように動き、喫煙所で止まると、煙をくゆらせる老女を捉える。そこへ本作の主役の一人であるドン(チャン・ルーイー)が姿を見せ、自身の深刻な病状について、言葉少なに彼女に打ち明ける。しかし初対面の老女は気にも留めない様子だ。それよりも、彼が煙草を持っているにもかかわらず火を借りたことが訝しい。よく作風の相似で引き合いに出されるが、もしホン・サンスだったら、喫煙所のカットから始めるに違いない。だけどチャン・リュルの映画では、こうしたカメラの動きが自覚的に起きることで、我々が見えている風景と我々の意識は少しずつ脱線していく。
自分が余命幾ばくもないことを悟ったドンは、病状を隠して兄のチュン(シン・バイチン)を誘い、福岡・柳川へと旅をする。目的はかつてともに愛し、突然姿を消してしまったリュウ・チュアン(ニー・ニー)を訪ねることだった。三人は再会し、同じくチュアンに惹かれている中山(池松壮亮)の存在も加わり、柳川の街を彷徨することになる。
初期のチャン・リュルは、たとえば『重慶』(2007)が顕著だったように、人間における肉体へのつながりに強くアプローチしていた。だが近年は、それこそエロティックな話題は登場人物たちの口の端に盛んに上るも、性的に接触しない/出来ない主人公を描こうとしている。代わって隆起してくるのは、『慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ』(2014)『春の夢』(2016)『群山』(2018)『福岡』(2019)において明確に示された死と夢と喪失のモチーフだ。身近な者を失ったり、今まさに死に瀕している主人公が、扉の向こう側や、地下道をくぐり抜けた先、あるいは壁紙を剥いだ"そこ"にある"あちら側"と邂逅する。言うに及ばず、競艇場の川面、居酒屋、ライブバーといった"あちら側"へと容易く越境させる場へ、ドンたちは絶えず移動し続ける。まるで自分たちからこの世ではない世界を希求するように。
しかし、チャン・リュルは、彼ら/彼女を現世へゆっくり引き戻そうとする。私たちはあるとき、舞台である柳川の水路とは逆に進むカメラの動きを目撃する。するとそれまで、死と喪失へ傾いていた映画が戻されていく感覚に陥ることだろう。気づかないほど、静かな足取りで。チャン・リュルがかつて性の容れ物である肉体への拘いで生を描いていたとするならば、『柳川』においてムーブを捉えることは新たにつかんだ生の象徴なのだ。
ドンもチュアンも、よく眠る。小舟やベンチで、体を折りたたむようにして眠りこける。彼らと彼女は、生の塊である胎児のようではないか。柳川の水をゆりかごにして、彼らの見る夢は臍帯のように皆をつないでゆく。何を夢想しているのだろうか。ドンが語ろうとした小話の結末がいつも宙に浮いていたように、その余白が埋まることはない。『慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ』のラストシーン、剥がされた壁紙の裏に果たして探していた春画はあったのだろうか。こうして我々は、結局のところ夢幻と死の世界に憧れているのだ。チャン・リュルはそれを認めてくれている。「死ぬ前には何も残さない」と話していたはずのドンに、チュアンにテープを遺させたのもそのためだ。逆に言えば、だからこそ我々は、ずっと、彼岸ではなく此岸にいることを明確に意識できるのだ。