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May 5, 2022

《第17回大阪アジアン映画祭》『徘徊年代』チャン・タンユエン(張騰元)
隈元博樹

[ cinema ]

CO07_Days Before the Millennium_main.jpg 戦後の状況下を説明する冒頭のフッテージに引き続き、どこからともなく「彼らにとっての幸せな時代が いつか訪れると思っていた」という女性の声が聴こえてくる。この「幸せな時代」とは、レンガを無骨に積み上げていく男性の姿とシンクロすることからも、当初はそうした時代を希求する彼についての物語だと思っていた。だがその推測は、ほどなくして間違いであったことに気付く。なぜなら『徘徊年代』は、異国の地で自らのフィールドを切り開いていく女性たちにとっての幸せな時代を追い求める物語でもあるからだ。
 このフィルムは90年代後半にベトナムから台湾の地方へと嫁いだ「新移民」たち、とりわけトゥエ(アニー・グエン)という女性を主人公に据えた第一部と、2000年代以降の台湾に生きる子世代のブイ(グエン・トゥ・ハン)を主人公に据えた第二部によって構成されている。第一部のトゥエは旧態依然とした慣習にこだわるせいか、そこに根を下ろして衣食住を営むことに自らの理想があると信じる人々とは異なり、絶えず新たな状況と環境を探し求める女性である。例えばトゥエの夫であるミン(スティーブン・ジャン)は、彼女や母親と暮らす家とは別に、自宅から数メートルほど先にある土地に新たな家を建てようとする。仕事先の現場でくすめた赤レンガは、自家製のセメントによって隙間を埋められ、彼はただ黙々とそのレンガを積み上げていく。たとえ四半世紀に一度とない台風や大雨の被害に見舞われたとしても、ミンは半壊となった新居の周りをふたたびレンガで固めようとすることからも、新たな家を建てることは彼にとっての理想そのものであり、幸せの時代とは自らの家を持つことと同義であるかのようだ。
 一方、ミンの妻として家に留まることに違和を覚えるトゥエは、同じくしてベトナムから移住したのち、手に職をつけて自営業を営む友人たちの手伝いを快く引き受けていく。そのため家事を蔑ろにしてしまう彼女に対し、姑(チェン・シューファン)は言葉で圧力を与え、さらにミンは妻の不義理を口実に手を上げていく。たがいに自立という意味では同じであるものの、ひとつの場所に留まろうとする夫のミンと、ひとつの場所に留まることから逃れようとする妻のトゥエ。ふたりの姿を見るにつけ、向かうベクトルははっきりと異なり、それ故にトゥエはミンの元を去ることになるのである。
 それから15年後の2015年。第二部は新移民の子世代にあたるブイを中心に展開されていく。彼女は家庭内の不和や不倫を専門とした探偵業の傍ら、同じく台湾で暮らす子世代の若い女性たちに慕われるボス的存在でもあり、働き口や居場所に困った彼女たちを手厚くサポートしている。だからブイはとにかく動き回る。数多の機会を求めて、所属する探偵事務所のオフィスや廊下、クラブハウス、農村など、目まぐるしいほどに移動を繰り返していくのだ。とくにこの第二部で最も興味深いのは、ブイの素顔が画面にまったく映らないことにある。カメラは常に彼女の背後にあるため、私たちはブイの向かう先々を後ろから追いかけることしかできない。ここで原題の「Days Before the Millennium」を引き合いに出すならば、私たちはスクリーンの手前からこれまで見てきた第一部の前日譚(=Days Before)を受け止めつつ、第二部の彼女(=the Millennium)を通じてその後の世界を目の当たりにしているかのように思えてくる。つまり手前で語られてきた過去から、こちら側に振り返りもしないブイという存在を通して現在を見つめ返している、と言ったら良いだろうか。こうした第二部がもたらす奥行きの視座によって、ひとつの時代の変遷を示唆していることが窺えるだろう。
 トゥエが90年代後半に辿った徘徊の軌跡は、2000年という時代を境に得た社会の状況、変化を通じてブイの世代へと受け継がれていく。血のつながりもなく、ましてや地縁さえも存在することのない地で、ふたりは時代を越えて見事にシンクロする。自らの意に反して故郷を離れたものの、そこに居を構えるでもなく、またこちらに振り向くことさえもしない。異国の地を軽やかに、また忙しなく動き回ることで、トゥエとブイは邂逅を果たすことになるのだが、自らの先駆者とも言えるトゥエとの出会いを果たしたブイは、そこで何を想っただろうか。トゥエが去ったあと、巨大なビル群を前に煙草をくゆらす彼女の素顔を想像する。そして彼女たちの「幸せな時代」を追い求める旅は、2020年を経た現在においても続いているのだろう。

第17回大阪アジアン映画祭にて上映