『バンビ:ある女の誕生』セバスチャン・リフシッツ
鈴木史
[ cinema ]
揺らぐ波形が画面いっぱいに広がる。波を切って進む客船が青い海に白い泡を立てているのだ。客船の甲板にはベージュのコートに身を包み、薄いブルーのスカーフを巻いた人物がいる。海の向こうを見るその人物は、サングラスをかけ、うっすらと微笑みをたたえているようにも見える。彼女の名はマリー=ピエール。フランスでは「バンビ」という愛称で知られている。このひとりの女性の孤高とも言える肖像を『リトル・ガール』(2020)のセバスチャン・リフシッツが切り取ったのが本映画『バンビ:ある女の誕生』である。バンビは自身の過去を語ることによって、たえず表情を変える波のうねりそのもののように、「多面体としての女」の肖像をわたしたち観客に提示する。その様はときに、観客のまなざしを拒絶するかのようなコートとスカーフとサングラスに包まれた彼女が、それらひとつひとつを脱ぎ去っていくある悲惨さをたたえたストリップのようでもあるが、カメラを向けるリフシッツとの共同作業によって、汚辱と悲惨の歴史にまみれたバンビという女性が、これまで多くの映画に描かれた勇敢な個人と同じように、傑出した人物であることをわたしたち観客に示す。
白髪のバンビがリフシッツのカメラの前に座り、自身の過去を語り紡いでゆく。バンビは1935年に、当時はフランスの植民地であったアルジェリアの小さな町で生まれた。彼女は、出生時には男性という性別を割り当てられた。現在でいうところのトランスジェンダー女性に該当する。だが、当時そのような言葉はなかった。かろうじて同性愛者などの言葉は存在したが、バンビのように生まれながらに割り当てられた性別ではない生き方を望むものを指し示す言葉はほとんど認知されておらず、「倒錯者」などというレッテルを貼られ排除されていた。その頃フランスの隣国ドイツでは、「生きるに値しない命」を根絶することを目的に、障碍者や労働忌避者、そして同性愛者を対象とした安楽死政策「T4作戦」がアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権によって実行に移されようとしていた。そんな時代のことである。
幼かったバンビは、妹のドレスを着てみたと言う。画面には、荒くくすんだフィルム撮影の映像で、往時のアルジェリアの風景が広がる。彼女の記憶がひとつひとつと語られる。彼女はドレスを着て、鏡の前に立った。「ああ、なんてことだろう」。鏡に映る自分を見て、ある絶望感を感じたと言う彼女は、ドレスを街路に放り出し、窓からその行方を覗いていた。しばらくすると、身体障碍と知的障碍をあわせ持った人物が通りかかり、その人物はドレスを拾うと、通りの奥に消えていった。幼い彼女はそれをじっと見つめていたと言う。この、あまりに可傷的な魂の持ち主からしか語りえないであろう、感傷的なエピソードは、彼女の記憶の中から語られた事実ではあろうが、脚色が施されているのではないかと勘ぐりたくなるほど、哀切に満ちている。しかし、この挿話を人生の語るべき重要な出来事として選択し、リフシッツとわたしたち観客に提示したのが彼女自身であることはまぎれもない事実だ。
バンビはまた別の挿話を語る。彼女はパリへ出て、ル・カルーゼルというキャバレーで働き始める。そこでは現在でいうトランスジェンダーの女性たちによるショーが催されており、街娼として危険な生活を送る多くの人々を庇護するためのある種の聖域として機能していた。必要な医療的手段として当時は公的に認められていなかったが、彼女たちの中の一部は自身の生命と精神の健康を守るため、自主的に女性ホルモン剤の投与を開始する。あるときバンビは、公的機関に呼び出され、身体検査を受ける必要があり、自身の身体を精査されるということの不安に苛まれることとなる。そこで、ル・カルーゼルで先輩格のスターだったコクシネルからこんなアドバイスを受けたという。「まず、医師に服を脱げと言われたら、なるべくおずおずと服を脱ぎ、『これでいいですか?』と言って恥ずかしげに、胸を隠せばいい。そうすれば、『お嬢さん、申し訳ない。きっとこれは何かの間違いなんだ。さあ帰りなさい』とその医師は言うから」。実際バンビはコクシネルの言う通りにし、事は彼女の言う通りに進んだと言って、悪戯っぽく笑う。これは、女性性を行使することで、自身を守り抜こうとする彼女たちの戦略だった。
バンビには、先述した幼少期の感傷的な少女と、後述の成熟した女性の高慢とすら言える女らしさが同居している。そして、そのふたつがおたがいを支え合い、おたがいを傷付け合ってもいる。バンビという「多面体としての女」は、妹のドレスを着て鏡の前に立ったときは、女らしくしたいのにそうできないということに傷付き、医師の前でなるべく「女々しく」はにかんでみせるときは、女らしくしたくないのにそうしなければならないということに傷付いている。複雑に編み込まれた経験と意識の世界の中で、彼女はつねに不安定であるということにより、誰よりも強固なアイデンティティを獲得したのだろう。
これらの挿話を自身の人生から選択し提示する彼女は優れた脚本家であり、真っ赤なシャツを羽織って自身の過去を巡る旅をわたしたちに見せる彼女は優れた演出家だ。バンビは、過去の記憶にまつわる場所に赴いては、ときに廃墟の暗がりの中で、骨張った両手と頬をいかにも冷たそうな石造りの壁に当ててみたりする。僅かな外光が、彼女の真っ赤なシャツだけを暗闇に生々しく浮き上がらせている。または、墓地とは名ばかりの整備されていない墓石の転がる林で、枯れ枝を手に、落ち葉をかき分けながら、「ここにお母さんがいるんだ」と呟く彼女は痛切さに包まれている。ひょっとするとそれらは、バンビとリフシッツという優れた映画作家の手によってわたしたちに提示されたイマージュに過ぎないのかもしれないが、彼女と彼にはそれをしなければならない理由がある。映画を作り、見せるという営みが、生きることそのものである人々がこの世界には少なからず存在するのだ。
当時は成功率が80%と言われていた性別適合手術をカサブランカで終え、パリの華やかなキャバレーの世界を去ると、彼女はバカロレアを通過し、ソルボンヌ大学に入学する。バンビは自身の過去を知らない人々を相手にして、教師として生きる道を選択する。しかし、やがて最愛の存在である母が亡くなる。匿名の女性としてフランスの田舎町に埋没して生きていた彼女だが、自身の過去を知らない人々に囲まれていても、ちょっとしたことで、過去を気付かれてしまったのではないかと不安になる日々を過ごしていた。彼女は、表面的には穏やかな、しかし誰も知ることのない不安に苛まれた生活を続けることはしなかった。その後のバンビがどうしたかは、この映画を見ての通りだ。彼女は、セバスチャン・リフシッツのカメラの前に、すなわちわたしたちのまなざしの前に再び自分自身を晒し、わたしたちに勇敢な個人としての物語を示すことを選択したのだ。
バンビは、ダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』(1959)のサラ・ジェーン(演:スーザン・コーナー)、カール・テオドア・ドライヤー『ゲアトルーズ』(1964)のゲアトルーズ(演:ニーナ・ペンス・ロゼ)、『(秘)色情めす市場』(1974)のトメ(演:芹明香)、満友敬司『俺は田舎のプレスリー』(1978)の真美男(演:カルーセル麻紀)、王兵『鳳鳴 中国の記憶』(2007)の鳳鳴といった、傑出した人々の系譜に属している。それは、誰よりも自分が何者かをよく知る勇敢な個人の系譜である。それら勇敢な個人は、それぞれ孤高の存在だ。しかし、忘れてはならないのは、そうした人々は、その他多くの人々に囲まれ、その関係の中で生きてもいる。『バンビ:ある女の誕生』は、彼女が現在生活を共にする女性と森を歩んでいく複数のショットを挟み、母をはじめとして、彼女を支えた多くの人々の姿を映したプライベートフィルムの映像を示すことで、軽快に幕を閉じる。
わたしはこの映画を、渋谷のユーロライブで行われた特集上映「Q(WE)R FILMS」で観賞した。スカーフとサングラスの下のバンビの微笑みが忘れられずにいたわたしは、翌日、渋谷の安居酒屋で友人に、この映画の感想を酔いにまかせて熱っぽく話した。老齢のバンビが、車を走らせる横顔を例えて、わたしは「撮影もマジかっこいいし、メルヴィルの『サムライ』のアラン・ドロンみたいだった!!」と伝えた。咄嗟に出た例えだったが、たしかにバンビは、路上駐車された車にどれか合う鍵はないかと無数の鍵を差し込んで、車を盗み去り、アンリ・ドカエがカメラにおさめた青いパリの街を颯爽と駆けていくあの無法者アラン・ドロンのもたらす印象と重なる。そんな話をすると、彼女は「へえー!!」と言い緑茶ハイを飲んで微笑んでいた。かつて、多くの観客が憧れ、真似してもみたであろうあのアラン・ドロン演じる無法者はひたすらに無表情だったが、バンビには微笑みがある。多くの人にバンビの姿を見て、彼女の微笑みを真似してくれたらと、わたしは夢見ている。バンビや、彼女の類縁であるわたしたちは、コロコロと転がるダイスのように表情を変え、笑いながら、もうすでにバンビの車に乗っている。現在の無法者は微笑みをたたえているのだ。