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May 14, 2022

『距ててて』加藤紗希
隈元博樹

[ cinema ]

『距ててて』スチール1.jpeg 些細なことがきっかけとなり、ひとり、またひとり、アコ(加藤紗希)とサン(豊島晴香)の住む家に人々が訪れる。例えばそれは鹿児島から上京した不動産屋の新卒社員である田所(釜口恵太)だったり、宛先を間違えて送った友人からの手紙を待ち続けるフー(本荘澪)だったり、他所の台所を使って華麗に手料理を振る舞う彼女の母(湯川紋子)だったり......。またサンの職場の先輩であるともえ(神田朱未)の家では、別れたはずの清水(髙羽快)と彼女による奇妙な和解の過程が目の前で繰り広げられる。映画の動力とも言うべきこうした闖入者たちは、前作『泥濘む』のように、突如として誰かの家に上がり込んでは、家主の同意を得ぬまま勝手に住み着いてしまう人々とシンクロする。だが、『距ててて』の向かう先が『泥濘む』と多少違って見えるのは、闖入者たちをはじめとしたフィクションの強度が、単なる不条理な閾にとどまらないところにある。画面の中の家々を通して闖入する人々をありのままに受け入れ、むしろ他者が拵えた世界に一歩足を踏み入れてみる。そのことで彼/彼女たちとの距離だけでなく、住人どうしの間にあった分かちがたい距離さえも、少しずつ溶け合い、そしてゆっくりと縮められていくことになるのだ。
 プロの写真家を目指すアコは、率先して家事をこなし、仕事に対してもストイックな一面を見せるものの、家賃の支払いといった経済的な負担はフリーターのサンに委ねられている。一方、サンは家事を手伝うこともなければ、自分の部屋を片付けることさえ苦手で、アコに届いた郵便物は自分宛のものと振り分けることすらままならない。相手のいないところでたがいに不満や愚痴をこぼす場面しかり、冒頭からサンがアコーディオンで奏でる「メリーさんのひつじ」がぎこちなく途切れ途切れに聴こえてくることからも、どこかふたりに生じている関係性、つまりはひとつの距離が最初から暗示されているかのようだ。そもそも彼女たちの家には、「いっちゃん」と呼ばれる共通の友人が住んでいたらしく、彼女はふたりの間を取り持つ存在だったようだ。そんな彼女が家にいない今、ライフワークの鉱石拾いに出かけるアコ、ともえの家に向かうサンは、それぞれの場面において各々に鼻唄を口ずさみながら歩いていく。まるでその鼻唄は彼女たちにとっての「いっちゃん」であり、同じ家に住んでいながらも、ひとりの時間を埋め合わせるために口ずさんでいるかのようにも感じてしまう。
 しかし彼女たちの鼻唄は、第4編の「誤算か憧れ」によってその存在意義を失うことになる。アコが大切にしていた石を巡る口論のあと、ふたりで出かけることになった鉱石拾いを通じて、今まで知ることのなかった発見と奇想天外な出来事の連続が彼女たちに降り注がれる。もちろん映画なのだから、何でもありと言えばそうなのかもしれない。ただ、理解不能な事物に対し、「何これ、やばいね」「うん、やばい」をたがいに連呼しながらも、アコとサンは朗らかにその状況を迎え入れていくのだ。こうしてふたりは、わかりあえないと思っていた他者の生活の一端に自らを投じることで、フィクションがもたらす不条理な閾をはるかに超え、目の前の隣人との生活の中で生み出された音楽(第1編「ホーム」)、言葉(第2編「かわいい人」)、料理(第3編「湯気」)、そして緑の光線!(第4編「誤算か憧れ」)をたしかに分かち合う。おそらくその体験とは誰かと映画をつくることそのものでもあり、コロナ禍という現在を以てして生まれる他者との距離に向けられたものなのかもしれない。ただ、そうした状況か否かを問うのではなく、今後いつの時代に見られようとも、『距ててて』を目の前にしたならば、自らが紛れもないこの映画の闖入者であることを受け止め、見ず知らずの誰かとともにそのヤバさを体験してもらいたい。ある距たりが導く、その悦びを。

2022年5月14日(土)〜6月3日(金)、ポレポレ東中野にて連日20:30より公開中