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May 19, 2022

『too old to camp』只石博紀+杉本拓
鈴木並木

[ art , cinema ]

 冒頭、カメラは地面に対して90度になったまま。ごつごつした大小の岩が点在する川原で、何人かの男女がスズランテープをひっぱって地面に図形を描いたり、棒で岩を叩いたりするパフォーマンスをおこなっている。昆布状の太い紐だか布だかが束ねられた、神社で使う御幣のようなものも出てくる。カメラは無造作に運ばれ、演者たちがフレームに入っていようがいまいが、かまわずに回り続け、不意に地面に置かれてはピンボケの地表を記録する。
 ......と、『too old to camp』の画面内で起きていることを、そこらでよく見かけるレヴュー風の文体で文字表現へと移植しようとしても、なにも伝わっている気がしない。なんだ「実験映画」か、と早合点して平穏な日々を送り続けるのはあなたの勝手だが、この作品に殴られてしまった者の義務として、これを読んでいるあなたを、あなたが見ている画面越しに、いまから軽く殴りに行きたいと思う。
 もっとも、殴られる前に読み応えのある公式サイトに目を通しておけば、只石博紀は映画監督とみなされがちだが本人は違うと主張していること、杉本拓は「やりたいことの順位で言えば、作曲家>ギタリスト>即興演奏家(あるいはパフォーマー)」であること、などがきちんと書いてある。さらには、この作品は只石の書いた曲と杉本の書いた曲の演奏の記録と、真島宇一が制作したトレイラーから成り立っている、と説明されてもいる。なんのことはない、これらを読まずに見に行ったわたしが、正しく殴られる準備ができていなかっただけなのだ。
 さて、どこからとりかかろうか。ごく穏当に、さしあたり反論の出なさそうなあたりから話を始めるならば、いわゆる実験映画やアート映画の存在意義として、日常生活や「普通の映画」では出会えない知覚の刷新、があるだろう。その刷新ぶりがあまりに極端だと、「わけがわからない」との感想が誘発される。『totc』に映っているのは、簡単にまとめると奥多摩の川原や林、そしてそこでうろうろしている複数人の男女だから、なにが起きているのか映像としてわからない、わけではない。カメラはほぼ常に移動していて(止まっている瞬間もあるが、それは移動の過程としての停止に過ぎない)、眠気を誘われることもない。言ってみれば、「一瞬たりとも目が離せないが、全部じっと見ている必要はとくにない映画」だ。
 実際、後半に至ってだいぶ集中力が切れたわたしは、見ている途中に思いついたトーク・イベント(この作品の関係者とは関係ない)の企画をそのまま練り続けていたのだが、同時に、映画の本質にかかわるかもしれないのにいままで一度も考えたことのなかったあれやこれやを、頭の中で転がしてもいた。それはたとえば、

・映画のカメラは一般的に重力に支配されて地面に正対しているが、その必要はあるのか
・カメラが傾いていると、その傾きに合わせて自分の頭部を傾けて見てしまうが、表層批評的な鑑賞法としてそれは正しいか(蓮實重彦も頭を傾けるだろうか?)
・地球にとっては人間も木も岩も等価である
・そのわりに映画は人間にだけ優しい(人間の都合だけで作られている)
・カメラが人間抜きで勝手に映画を撮り始める日はいつか
・その映画を見るのは誰か

というようなこと。
 1000年単位の映画史を考えてみる。映画がそのごく初期、フィルムという物理的支持体を必要としていたという事実は、些末事過ぎて、そのうち映画学校の教科書にも載らなくなるだろう。人間が人間の演出によって演技をしてそれを人間が撮るやり方も、まだ映像生成技術が未成熟だった時代ならではの挿話として、新鮮に受け止められるに違いない。
 只石の『季節の記憶(仮)』(2014)は、出演者がファインダーを覗かずにカメラを持ち運んで次々にパスし、そのカメラが記録した映像を「編集なし」で作品にしたものだった。いま、『totc』に殴られてしまったわたしたちには、『季節の記憶(仮)』ですら、古典的なシネマの規範に則った、人間と機械の素朴な共同作業のように見える。『totc』のカメラは、人間の美的感覚=支配から離れていこうとしながら、それでもなお、ところどころでズームしたりパンしたり、隠し撮りしたり青春映画になってみたりと、人間くさいしぐさを捨てきれていない。『季節の記憶(仮)』を飼い犬の散歩だとすれば、『totc』はいわば鎖を噛み切った野良犬の彷徨であり、サイボーグ化しつつある映画のファントム・ペイン(幻肢痛)である。
 7分半ほどある『totc』のトレイラーをご覧いただきたい。ここにはいわゆる「本篇」の映像は使われていないが、カメラが人間の美的感覚=支配から逃れようとする意志は確実に見て取れる。
 最後に、鑑賞した環境について。わたしが見に行ったのは、代田橋のGallery Den 5での上映だった。名店「しゃけ小島」のすぐ近く、立ち飲み屋「納戸」の2階のこのスペースには、外部とを遮断するドアはない。布1枚を隔てただけの階段を通って、階下から物音や会話、酔客の怒声、はては甲州街道のパトカーのサイレン、遠くの京王線の走行音などがそのまま入ってきて、画面の中の音と混じり合う。そうした状況は普通ならばとても耐えられないはずなのに、目の前の奥多摩の川原や林はいま自分がいる代田橋の立ち飲み屋の2階と地続きの時間・空間なのだと教えてくれるようで、ごく「自然」なものに感じられたのだった。

2022年5月14(土)~15(日)代田橋・納戸/Gallery Den 5にて上映