第75回カンヌ国際映画祭報告(3)それぞれの開幕上映作品を巡ってーー作家性は遠い彼方へ
槻舘南菜子
[ cinema ]
ミシェル・アザナヴィシウス『Coupez!』
開幕上映作品に華やかさが求められるのは周知の通りだが、今年はその裏に作家性を微塵も感じない作品ばかりが並んだ。公式部門の開幕作品『Coupez!』の監督であるミシェル・アザナヴィシウスは、『OSS 私を愛したカフェオーレ』、『アーティスト』や『グッバイ・ゴダール』と、オマージュとは言い難い歪な模倣を繰り返してきた。その彼が、公式部門の開幕上映作品『カメラを止めるな!』の仏リメイク版を手掛けるのは、至極当たり前のことだろう。そもそも日本版のオリジナリティとはインディペンデント精神であり、ロマン・デュリスなど有名俳優をキャスティングした本作は、アイディアを盗用しただけの表層的で無難なコピーの域に止まっている。コンペ外での上映なのが救いだが、昨年の開幕上映作品、レオス・カラックス『アネット』との格差には慄く他ない。
マチュー・ヴァドピエ『Tirailleurs』
ある視点部門の開幕上映作品、マチュー・ヴァドピエ監督『Tirailleurs』は、ゴーモンが製作、主演にオマール・シーを迎え、第一次大戦に徴兵された息子を連れ戻すために戦地に向かうという筋書きだ。戦時を描くという共通点はあるものの、昨年の同部門開幕上映作品で世界的にはそれほど知られていない日本人俳優を迎えた、アルチュール・アラリ監督『ONODA 一万夜を越えて』とは雲泥の差がある。アラリが『汚れたダイヤモンド』から続く主題である男の強迫観念を「小野田」に託し、その執着を時間の集積の中で捉えたのに対し、ヴァドピエにおいては、主題と状況を巡ってダイアローグが右から左へ流れていくのみで、演出が介在せず、スペクタクルなシーンの先にあるのは、死という凡庸な終わりだ。両者とも二作目の長編作品だが、アラリと比すれば、如何にヴァドピエが、テレビ的なのかは明らかだろう。
ジェシー・アイゼンバーグ『When You Finish Saving the World』
併行部門の一つである批評家週間は、今年、アーティスティックディレクターが、シャルル・テッソンからアヴァ・カーエンに移行した最初の年となった。その開幕を飾ったのは、数年前に主演作品『ビバリウム』が同部門に選出された俳優、ジェシー・アイゼンバーグの初監督作品『When You Finish Saving the World』だ。主演女優であるジュリアン・ムーアの登壇は、開幕上映に彩りを添えたものの、作品自体は非凡さから遠い出来だった。母親、エヴリンと息子ジギーとのすれ違い、葛藤、衝突は、平板な台詞の応酬と状況のみで説明される。空転し、平行線を辿る二人の関係性は演出によって描かれることなく、登場人物の造形にも全く立体感がない。公式コンペティション部門、ジェームズ・グレイ『Armageddon Time』が見せた多層的で複雑な人物像とは真逆だ。作品自体のクオリティではなく、ハリウッドの華やかさを開幕上映に求めたということだろう。
ピエトロ・マルチェッロ『L'envol』
一方、監督週間部門のピエトロ・マルチェッロ監督『L'envol』の牧歌的な雰囲気や少女と魔女との出会い、ファンタジーを盛り込んだ主題は、彼のこれまでの作品群に連なるものだと言える。だが、無垢さを持つ新人女優、ジュリエット・ジュアンの脇を固める仏俳優ルイ・ガレル、ヨランダ・モローやノエミ・ルヴォルスキーは、彼の世界観とは全く異質に見える。マルチェッロのドキュメンタリーを起源とする独特の作家性はほぼ失われ、単にフィルムで撮影された美しい映像として捉えられているのみだ。初のフィクション『マーティン・エデン』は、ジャック・ロンドンによる自伝的小説の脚色だが、物語の舞台をアメリカからイタリアに移し、監督自身の出自に引き付けることである種彼自身の作家性が担保されていたように見える。フランスの製作システムにより作家性が破壊された例であり、外国人監督にもたらされた弊害として強く感じざるをえない。