『トップガン マーヴェリック』ジョセフ・コシンスキー
結城秀勇
[ cinema ]
0.1ずつ上昇していくデジタル数字によって達成しなければいけない速度が示され、作戦成功の必要条件であるタイムリミットも同様にカウントダウンされ、越えてはいけない高度の線には目印のように地対空ミサイルが設置されている。目標は目に見えるし、見えさえすればマーヴェリックはなんとかする、だいたいそんな話だ。死んだ仲間の息子には同じ口髭が付いているからわかるようになっているし、トップガンOGOB全員についているマーヴェルヒーローみたいなコールサインは、ちゃんとコックピットで被るヘルメットにきっちり印刷されていて視認性を高めてくれる。それらをトム・クルーズは、様々な登場人物たちが繰り返し指摘する「その目つき」で見る。
そんなことは映画づくりのごくごく当たり前の作法なのかもしれないが、この映画の「敵」が見えない(あるいはいないかもしれない)だけにこの作品の本質的なテーマに関わる。それは後述する「敵国」の存在だけではなくて、そもそも戦闘機乗りという種族がこれから必要なのか、無人でいいじゃん、というところからこの作品はスタートするからだ。冒頭のテスト機がなぜ有人機として史上最速を目指す必要があるのかという理由は特に説明されていなかったように思うが、映画自体はその理由をシンプル極まりないロジックで提示する。コックピットにはパイロットが必要だ、いれば見えるから、そして見えればなんとかできるから。
その論理が極まるのが、作戦成功後に待ち受ける「敵」との戦闘シーンである。名前も顔も信条もアイデンティティもない「敵国」(北国であることでお察しあれ、と)の、ほぼ唯一目に見える存在が「第五世代」戦闘機であること。Wikipediaには、第五世代ジェット戦闘機の要件として超音速巡航とステルス性があげられるが、前世代機にも超音速巡航が可能な機体があることから「第4世代ジェット戦闘機との大きな差異はステルス性以外には見当たらない」、とある。この映画のほぼ唯一の「目に見える敵」は、見えないようにすることが第一の目的の存在という逆説。F-18を上回る運動性能を持つ「第五世代」機を相手に、ステルス性能うんぬん以前にそもそもレーダーの画面が映らないオンボロ戦闘機で立ち向かうマーヴェリックの戦術は、「(ミサイルの)煙が見えたら言えよ」であって、見えさえすればなんとかする。敵がおそらくスラスター的なものを使って行う垂直姿勢の急ブレーキと同じような動きを、マーヴェリックはF-14の可変翼を使って行うのだが、同じ動きならそりゃ翼が変形したほうがなんとなくかっこいい。
見えないほうが有利とか、いないほうが経済的とかより、見りゃわかるほうがおもしろいでしょ映画なんだから。その乱暴すぎる単純さが、『トップガン マーヴェリック』の魅力である。
......と言って終わろうと思ってこの文章を書き始めたのだが、たぶんそれだけでは十分ではない。「見りゃわかる」ことはたしかに大事なのだが、それは見分けがつくとか、見てわかりやすいとかとは必ずしも同義ではないのだ。顔も名前もない敵国は、某大国を指してるのかどうかよりも、アメリカとほぼ同じ兵器をそろえていて、なんならアメリカの兵器そのものを持っていることのほうに重要性がある。まるで、チームの結束のために催されたボールがふたつある謎のビーチアメフトのように、どちらが攻めてどちらが守っているのかなど見分けがつかず、誰がどちら側にいてどれが誰なのかなどまったくわからない状態のほうが、彼らが戦闘機のコックピットの中で向かい合うシチュエーションよりも、現代の我々が置かれた状況に近い。だからこうは言えないだろうか。トム・クルーズの真価は、見りゃわかる状況下での無敵の強さではなくて、ほぼ還暦の肉体が海パンにサングラスの若者たちの肉体に混じってほとんど見分けのつかないステルス性にあるのではないかと。たしかに私は、あのシーン以降、どっちが何点勝っているなんて数えるのをやめた。