『リコリス・ピザ』ポール・トーマス・アンダーソン
結城秀勇
[ cinema ]
「全部2回言うね」
「全部2回なんて言わない。全部2回言うってなによ」
ゲイリー(クーパー・ホフマン)とアラナ(アラナ・ハイム)が初めて出会うシーンで交わされるそんな会話を、ニーナ・シモンの歌声と波間に揺れるような横移動の心地よさで、なんとなく聞き流してしまう。だが映画を見ている間もこの会話はずっとどこかに引っかかっていて、なぜなら彼女はこの後、このシーンほどの頻度で「全部2回言う」ことはないからだ。
たとえばそのセリフの次のカット、体育館の対角線上を入口から出口へとふたりが踊るように通り抜ける場面の最後で、アラナが「もしかすると、後でね」の後間髪もおかずに「後で会わないけど!」と言うとき。あるいはもっとずっと時間が下って、ジョン・ピーターズ(ブラッドリー・クーパー)の、アラナとゲイリーはなぜ付き合っていないのかという質問に、「私28歳よ」「なにが?」「私25歳」と答えるとき。ゲイリーに「君と話すのが好き」と感じさせた彼女の性急な喋り方、話し終える前にすべてがふたつに増殖していくような言葉遣いは、ゲイリーとの出会いを経て、同じ意味の異なるふたつの言い回しであることから、正反対の意味合いあるいは双方が共に並び立つことはないような矛盾へと変貌していくのだ、と仮定してみる。
もし同じことの繰り返しであるはずの彼女のセリフが、アラナとゲイリーの出会いによって、建前と本心、嘘と真実、ためらいと性急すぎる行動、などなどに分裂していくのだとしたら、それはこの『リコリス・ピザ』という映画自体に少し似ている。クーパー・ホフマンが演じたゲイリーにはゲイリー・ゴーツマンというモデルがいて、クーパー・ホフマンはあのフィリップ・シーモア・ホフマンの息子で、アラナ・ハイムが演じる人物の姉妹両親は本当の家族で、レオナルド・ディカプリオの父親とかも出演していて......、でも1973年には決して行われなかった催し が開催され、あれだけ「バーブラ・ストライサンド」を連呼したくせにウィリアム・ホールデンと彼の出演作の名前は微妙に変えてあるとか一体なに、など。フィクションかどうかとか時代考証がどうとかいうこと以前に、ある描写が終わりきる前にその描写の真実と嘘なんて二項対立自体が無限にセットバックしていくこの映画の中で、同じことの反復であっても矛盾する内容であってもまったくかまわないアラナのセリフのリズムそれ自体に、観客は飲み込まれていく。だから、もしアラナとゲイリーが出会わなかったならば決して生まれるはずのなかったギャップ(真実と嘘でも、大人と子供でも、なんだって好きなように言えばいい)を埋めるためだけに、アラナとゲイリーは互いが衝突するまで全力疾走を繰り返す必要があるのだ、と言うこともできると思う。
でも、こんな日にこの映画について書くなら、もう少し言っておきたい。アラナとゲイリーが過ごした季節の後に『ブギーナイツ』のような斜陽の時代が待っていることも、ウォーターベッドスタートアップの夢がオイルショックと共に崩れ去ることも、ワックス議員(ベニー・サフディ)がどこかハーヴェイ・ミルクを思わせることも。ワックス議員に夕食に誘われたアラナは、注文したマティーニについて、「ウォッカですか?ジンですか?」と問われ「ウォッカ=ジンで」と答え、「オリーブかライムを添えますか?」との問いに「イエス」と答えていた。
とにかくもう、なにが好きだとか嫌いだとか、なにを選ぶとか選ばないとか、そんな慎ましやかな自分らしさが、さもより大きなこと風を装う「どっち側」みたいな問題に回収されていくのは嫌なんだ。だから今日は、なにか大きなふたつのことの間で揺れ動くように見えても、同じことの繰り返しでも矛盾することを同時に言うことでも一向に構わない、『リコリス・ピザ』のアラナのリズムに身を委ねることが本当に大事なのだと声を大にして言いたい。