『リコリス・ピザ』ポール・トーマス・アンダーソン
梅本健司
[ cinema ]
私が要約を拒むのには、また別の理由がある。要約というものは、付随的な筋や結果の出ない筋を犠牲にして、決定的な筋を出現させるものだからである。ところが私の主題は、取るに足らない筋の継起のなかに、重要な筋を組み入れるにはどうすればよいか、ということなのだ。つまり、映画的な作劇に特有の図式的な短縮をすることなく、出来事の普通の流れを描くことが、ここでの主題である。 *1(ジャン・ユスターシュ)
もう10年前になるが、『ぼくの小さな恋人たち』(ジャン・ユスターシュ、1974年)を初めて見た際に主役の少年も、彼と触れ合うことになる少女もあまり「小さな恋人たち」には見えなかった。それは当時の自分が主演のマルタン・ローブよりも若かったこともあるかもしれない。ピンボール台が置かれたカフェで、通り過ぎる女たちを見定めるマルタン・ローブを含めた男子たちは、男子たちというよりも男たちで、ずっと大人に見えたものだ。『ぼくの小さな恋人たち』をやはり「小さな恋人たち」だったのだと確認したのは、ごく最近のことで、それはやっと自分が大人になったのかもしれないと思えたエピソードのひとつである。カフェに屯する男たちは、男子たちに見え、マルタン・ローブは他の男子たちよりもかなり幼く、浮いて見えた。
『ぼくの小さな恋人たち』が撮られた一年前に時代が設定されている『リコリス・ピザ』は、かといって同時代の空気を共有しているのかというとそうではないかもしれないが、不思議と今述べたような些細な場面を思い出させる。爆竹のせいでトイレでのヘアセットを中断された高校生のゲイリーが、渡り廊下でくしと鏡を持って向こうから歩いてくるアラナに声を掛けるところからふたりの関係は始まる。アラナを横から捉えたトラヴェリングは、ゲイリーとの出会いに反応し、逆方向へとスムーズに動き出す。『リコリス・ピザ』においてカメラは、登場人物たちに先立つものとしてあるわけではなく、彼らのアクションに寄り添うように動いていく。ゲイリーは15歳、アラナは25歳であることがふたりの会話からわかる。15歳は子供と大人の狭間にいるというにはまだ少し早く、一方で25歳は一般的には大人とされていて、そのふたりの恋を描くことは人によれば挑発的な設定なのかもしれない。アラナ自身も彼を「男」ではなく「ガキ」として扱い、ディナーへの誘いを無下にしようとする。アラナにとって、ゲイリーや彼と同世代の子供たちと関わることは奇妙ことであり、一見それがゲイリーとなかなか結ばれない要因のようにも思える。しかし、映画を見ていくうちにそれがどれだけふたりの関係にとって問題なのかということは巧妙にずらされていく。
子役であるゲイリーがニューヨークで行われる出演作のPR ツアーに同行するには保護者同伴でなくてはならないが、母親とは都合が合わず、代わりにアラナとともに飛行機に乗り込む。アラナに比べてゲイリーは、ふたりの年齢に対して無頓着のようでいるけれど、保護者に指名したり、後に彼女をベビーシッター、おばさんと呼んだりと必ずしも意識していないわけではない。アラナは、機内で出会ったゲイリーと同世代で彼よりも小柄な子役ランスに誘惑され、ツアーの後で付き合うようになる。この時点でアラナがゲイリーを子供であるということで拒否する道理はもはやないように思える。
ゲイリーが子役という職業に就いていることはまさに彼が子供であることの証である。しかし、そこで描かれるのはむしろ大人たちの、ビジネスの世界であって、子役が逆説的に彼を大人と対等な存在にもしている。また、彼は同時にPR会社を経営し、そこで母親を雇っており、通常の親子とは違った関係を築いている。ステレオタイプの家族像が描かれるのはどちらかと言えばアラナの家族たちのほうであり、彼女は両親と姉たちと共に暮らしている。アラナは自分の生活を自力で成り立たせているわけではないようだ。子供に見えた人が大人で、大人に見えた人が子供ということもある。ただ、この映画を通して「子供大人」のゲイリーと「大人子供」のアラナという図式が成立するわけではない。あるいは、それぞれが大人へと成長するという物語を描くというわけではない(16歳の誕生日が近いらしいことが、映画中盤ゲイリーの口から告げられるが、彼がひとつ年を取ったという描写は訪れることがなく、それほど長くない期間をこの映画は描いていると思われる)。彼らが、チャンスがあったにも関わらずなかなか付き合わないことが、いくつかのエピソードによって語られるが、それぞれのエピソードごとにどちらが子供でどちらが大人なのかというのはわからなくなる。もしくは、そのことはほとんど問題ではなくなる。
やがてゲイリーとアラナが始めるウォーターベット販売の「ファットバーニーズ」では、子供たちが協力して商いをする。店舗が開店すると、当たり前のように子供が客に対応し、大人だけではなく子供も客として扱われる。夜通し続くパーティーには大人と子供が参加し、子供たちが演奏する音楽で大人たちが踊る。それは、ショーン・ペンとトム・ウェイツが戯れ合うバーでも同様で、ゲイリーを含めた子供たちが客とみなされず疎外されることはない。大人たちだけではなく、小さな子供たちもアクロバットを披露したショーン・ペンに駆け寄っていく。ゲイリーが最後に開くことになる「ピンボール・パレス」においても、大人と子供が同じ空間を共有している。大人のように佇む子供たちは浮いて見えはするけれど、画面のなかの人々がそれを気にしている様子はない。子供と大人が区別されず同様に楽しんでいる、それが『リコリス・ピザ』の描く世界であり、だから、アラナとゲイリーがいるところは、そもそも子供と大人の境を意識する必要など希薄な場所なのだ。ふたりが結ばれないのは彼らの間になんらかの障壁があるからでも、たいした理由があるわけでもない。冤罪によってゲイリーが警察に捕まった後でも、アラナがショーン・ペンのバイクから振り落とされた後でも、あるいは最初に語り合った夜にだって、付き合ってもよかったはずだ。ただ付き合っていないだけである。しかし、彼らのその奔放さによって、それぞれの登場人物やエピソードは、ただ彼らが疾走するための動機としてだけ見えることなく、それ自体として忘れ難いものになっている。
ベニー・サフディ演じるワックス議員がゲイであることを秘めるために、恋人を蔑ろにするのをアラナが目の当たりにする場面は、たしかに彼女がゲイリーのもとへ走る要因となっているようにも思えるが、そこでゲイのふたりがアラナとゲイリーの「大人と子供」の関係の相似として描かれているわけではない。ワックス議員らを監視する12番のTシャツを着た男のような存在は、ゲイリーとアラナにはいない。彼らが、結ばれるためにそのようなメロドラマ的な外圧に耐え忍ぶ必要などどこにもないのだ。ワックス議員と恋人の短いエピソードが心を打つとしたら、アラナとゲイリーが結ばれるのを後押ししているからではなく、ふたりの関係がそれ自体で重要なものとして描かれているからである。
男女が容易に結ばれない物語を描く『リコリス・ピザ』の新鮮な魅力は、その男女の間に乗り越えられるべき壁を用意することもなく、個性豊かな登場人物たちに物語を一点に向かうように手伝わせることもなく、ただカップルにならずに共に生きることを描き、132分に映画を引き延ばしたことにある。ゲイリーがアラナのどこに惚れたのかも、アラナがゲイリーにいつ惚れたのかもよくわからない。特権的な部分などなく、決定的な瞬間もなく、疾走する場面にこそ感動させられるわけでもない。魅力的にもそうでないようにも見えてしまう刻々と変化するふたりの顔が、どれもどうしようもなく素晴らしいように、すべての部分と瞬間をそれ自体として輝かせようとしているある種の取り留めのなさになにより賛辞を送りたい。
*1須藤健太郎『評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように』共和国、2019年、103頁。
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