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July 30, 2022

『せなせなな』井川耕一郎
千浦僚

[ cinema ]

 『せなせなな』は早稲田大学シネマ研究会に所属していた井川耕一郎が1986年に制作し公開した8ミリフィルム映画。同年に『ついのすみか』という作品もつくられている。
 『せなせなな』は長さ65分ほど。明確なストーリー、わかりやすい起承転結はなく、密室か、屋外であっても他者や広がりを持たないいわば「密室化した荒野」という空間での男女の身体的からみと感情の交錯を描く。
 この「からみ」とはいわゆるポルノ映画、日本ではピンク映画と呼ばれるもののラブシーンとは違って性器的な結びつきではなく、性的なたかまりというほどではないが、それにインスパイアされ、批評的に応用する屈折的暗示的ラブシーンである。
 一見明瞭な筋立てがないと記したが、この映画にはもちろん見てとれる物語がある。
 『せなせなな』は、ヒロインが、どうやら他にも女がいるらしかったりヒロインに対して満足と安心を与えてくれはしないいい加減な男とだらだらと過ごす日々が、「×月×日」という表記の、日付の数字を欠く日記的区切りの字幕を差し挟みながら十五日分ほど並べられ、そこにもうひとつ、「今は昔」そのほかの語の字幕で区切られた、ヒロインとその兄と姉との暮らしのスケッチが混入している。兄と恋人の男はだらだらしたところが似ている。姉というのは顔が見えぬように撮られていて、重い喘息を患っているため苦しげな発声で夢うつつの事柄をささやく。
 監督による制作メモによれば、高野文子の漫画「午前10:00の家鴨」に想を得ているとのことで、たしかに、ねえわたしのことすきかしら、すきだよ、きみはぼくのことすきかしら、すきよ、というやりとりの台詞や、男女の距離感はそのままつかわれているように見える。阿部優子が演じるヒロインと武井昭文(?)演じる兄が桃の缶詰を食べている場面で流れている音声は、若尾文子が監督増村保造にただ一度先んじて芝居ができたと述懐する1961年の映画のもので、川口浩と若尾のもっともディープでヘヴィなやりとりの台詞がのほほんと過ごす兄妹の場にかぶさる。当時の井川氏の最愛の映画は増村保造の『遊び』(71年)だったそうで、『せなせなな』上映会で配布された解説のペーパーでも「どうも、自分の映画のことは書きづらいので、またしても好きな映画のことを書いてしまった」と述べて井川氏は、『遊び』における関根恵子と大門正明の身体性と動作と仕草を列挙し、その素晴しさを称え、「ラストシーン近く、大門正明と関根恵子が走りぬける草むらの草がざわざわとざわめいているのに、ひどく感動してしまうのは何故だろうか」と記している。
 60年代70年代、増村の描いた愛の極点を知りながら、80年代の明るく軽い風景のなかで井川氏と『せなせなな』の登場人物らはそれらを斜に眺めてやりすごすかに見えて、偽装の巧みな犯罪のごとく、『せなせなな』は重く暗いものを隠している。本作の終盤、ヒロインは戯れに交えて、その延長線上で不実な男をついに殺害している......ように見える。この、「そう見えもする」というつくりが絶妙だと思う。十数日分の描写をかけていちゃつきを高めていったヒロインと男は、次第に『実録 阿部定』(75年 監督田中登、脚本いどあきお)、『愛のコリーダ』(76年 監督脚本大島渚)のような、縊死プレイ的な様子になる。彼女らはついにここで密着度を高め、ヒロインは着乱れて絶対領域を垣間見せ、冒頭からの積み重ねられた幼児めいた身体の遊びは急に裏切られてアダルティになる。学生たちの映画製作でラブシーンを撮ることの難しさが回避というよりも超克されて非性器的交接となり、そこにエロスと同量のタナトスを込めることをやっている。
 映画誌「映画芸術」2022冬号 vol.478に脚本家映画監督高橋洋氏(井川氏とシネ研の仲間だった)が寄せている井川耕一郎氏への追悼文には、『せなせなな』『ついのすみか』制作当時の井川氏が、神代辰巳監督『少女娼婦 けものみち』(80年)のリハーサルレポートである「神代シネマフィールドノオト」を参考にして、他のシネ研メンバーにはない俳優の身体性への演出意識があったことが指摘されている。『せなせなな』には神代『恋人たちは濡れた』(73年 脚本 神代、鴨田好史)を連想させずにはおかない馬跳びの場面があるが、神代の影響は単に模倣や引用にとどまらないというわけだ。また、高橋氏は二十歳ごろから井川氏がピンク映画への造詣が深く、それを通じて「映画」の可能性を考えたのだろうということも。(井川氏と『せなせなな』『ついのすみか』出演の武井昭文氏の出会いは、井川「高橋伴明監督のピンク映画『日本の拷問』(78年)が好きです」、武井「『日本の拷問』は観てないけど、ピンク映画(だけ)が好きで300本くらいは見てる」、だったという)
 『せなせなな』は映画作家井川耕一郎の処女作ではないが(これ以前に『鬼越のこと』『恋をしに行く』という8ミリ作品があるらしい)、最初期の作品であり、そこに生涯を貫く主題と作品世界の可能性がほとんどすべて出揃っている。観るべき作品である。いま、氏の業績を過去完了形で書かざるを得なかったことが悔しいが、本作はじめ諸作品が観られ、語られ、それをこれから行なう者がいるかぎり映画作家井川耕一郎は在り続ける。

上映会「井川耕一郎の仕事部屋」 2022年7月30日アテネ・フランセ文化センターにて上映