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July 30, 2022

『夜を走る』佐向大
結城秀勇

[ cinema ]

『夜を走る』©付.jpeg
 谷口家の洗面所の照明は、はじめに切れかかっていることを示唆されてから、少なくとも2ヶ月から3ヶ月くらいはそのまま放置されている。やがて劇中に初めて洗面所が登場するとき、点滅する蛍光灯の激しい光と闇との交換運動が暴力的なまでに観客の視界を襲う。「なんでこうなるまで気づかなかったの」、夫をなじる妻の声は、もはや冷め切った夫婦関係を隠喩として示唆するにとどまらず、もっと根源的な人の生死に関わること、人として最低限の尊厳に関わることを問いかけてでもいるかのように、響く。
 「なんでこうなるまで気づかなかったの」。この映画の宣伝用コピーとして「今日も平和だ」というフレーズが決まるや否やというタイミングで、ロシア軍がウクライナへと侵攻を開始し、「『今日も平和』じゃなくなっちゃいました」という戸惑いと自嘲混じりのメールを宣伝担当から受け取ったときには、まだ気づいていなかった。この映画が館を拡大して公開を続ける中で、カルト宗教の広告塔だった元首相が信者の息子に暗殺されるという事件が起きてさえも、まだ気づいていなかったのだと思う。だからと言って、『夜を走る』という映画を予見的な作品だなどというような持ち上げ方をする気にもさらさらならず、それは佐向大の作品が常に、あらゆる事物の配置が避けることのできない崩壊への傾斜として構成され、そしてそこにいる者たちは常に、その事実に気づいたかどうかに関わらず一様に世界のエントロピー増大の法則から逃れることができないからだ。前述のふたつの出来事は、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、地下鉄サリン事件などといった四半世紀も前に起こった数々の出来事を思い起こさせ、それなのにあるいはそれゆえに、我々は知ってはいたのに、まだ気づいてなどいないのだとその度に痛感する。まるで佐向がかつて、作品ももう終わりだというタイミングで「まだ楽園」というタイトルを大きく映し出したように。
 『夜を走る』の劇中で、あらゆる登場人物たちが同じ内容を違ったシチュエーションの中で反復する。秋本と谷口の会話にはじまり、ジーナやニューライフデザインのパートナーたちへと波及する「普通」についての言及。イースト貿易のキムが指摘する、ポロシャツとカツラの同じ「二万円」。誰もがそんな話を忘れた頃に復活する、邪魔なワイパーでひともうけする話。数え上げればキリがないほどある例のそのどれもが、前回と今回の間にあるはずの差異をショットとして可視化してくれることがない。量的な蓄積が質的な変化を生むなどということさえなく、同じはずのふたつが決定的に違い、それなのにそのふたつの違いなど見分けがつかないので、ただ強烈な光と闇の交換運動が癲癇を引き起こすように、おぞましい恐怖を感じて、思わず笑う。
 洗車場のブラシの回転は、「360度視点を変える」ことは、突き飛ばされてそこから後ろでんぐり返しで起き上がることは、革命なのか同じ日常の反復なのか。なぜ秋本が手に入れた拳銃はオートマチックではなくリボルバーなのか、なぜ秋本は美濃俣の周りを大きくぐるっと回るのか、なぜそのとき秋本の手は螺旋を描くような運動をするのか。もう何度繰り返しこの映画を見たのかさえ忘れたが、すべて見知ったはずのひとつひとつのカットに、まだ気づいていない。
 だから結論として言えるのは月並み極まりないたったひとつのこと、『夜を走る』はいま見られなければならない映画だということだ。


公開中

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