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July 30, 2022

『ついのすみか』井川耕一郎
千浦僚

[ cinema ]

 (......ひよめき【顋門】 幼児の頭蓋骨がまだ完全に縫合し終らない時、呼吸のたびに動いて見える前頭及び後頭の一部)

 『ついのすみか』は早稲田大学シネマ研究会に所属していた井川耕一郎氏が1986年に制作し公開した8ミリフィルム映画。同年に(おそらくこれに先立って)『せなせなな』という作品もつくられている。
 なかなか上映の機会がないが、2021年11月に亡くなった井川氏の追悼上映会が2022年7月30日に開催され、そこで『せなせなな』とともに上映された。
 『ついのすみか』の長さは35分ほど。深夜の台所での、とある男女の半睡半醒のような気だるいやりとりを描く。一見明瞭な筋立てがないようにも見えるが、実は見てとれる物語がある。60分以上あった『せなせなな』よりもギュッと濃縮されて、しかし一貫した同種の主題が追求されている。
 台所にいる男女のうち女性のほうが主人公である。冒頭の字幕は
「姉さんが出かけたきり帰ってこないまま一年」「残された男と逢瀬を重ねるこのごろ」
と彼女らを説明する。縦の奥行きある構図で、街灯に照らされた細い可視の空間を奥に去ってゆく女性の後ろ姿の画と、玄関のたたきに並ぶ女物男物の靴。
「父さんも母さんも出かけて帰ってこない夜」
と字幕。本作はサイレント映画のような呼吸で始まり、観るものを強く掴んでその作品世界に引き込むが、そこからの音響、この男女の台詞は同時録音で撮られている。キャメラ駆動音もノイズとして聞こえるが、アフレコの演技と台詞の遊離感覚ではなく、吐息のような台詞がシンクロして録られていることが本作には必要であった。
 とにかく気だるく、突っ伏してささやくように言葉を発する女とそれをかまう男。
 卓上には調理の下ごしらえをされているアサリがボールに張った水に沈み、さらに砂を吐かせるために水には包丁が入れて置かれている(金物を入れた水だとアサリはより砂を吐く)。
 それだけの事情があって逢瀬を重ねる男女であるからにはふたりは暗さのなかにあり、また性交も接吻も、普通の愛撫さえも抵抗があるのではないか......。
 女はアサリにかこつけて様々を男にせがむ。......わたしにも砂があるんです......ぬぐってください......。
 男もそこにのって、身をはみださせてもだえる貝のさまを卑猥に語り、姉にもそうしたのだ、と妹の首を絞め、そのときの反応を比べる。ふたりはそのように閉じた愛を語り合う。
 頭部のひよめきの不快をしずめてほしい、と女が求め、男は包丁で彼女の頭を、髪を撫でる。その音、その気配!
 ロゴス、言葉も強くこの映画を牽引していくが、映像と音響でしか実現できない表現、「映画」が全篇に満ちている。
 そして『せなせなな』同様、本作もまた非性器的エロスのポルノであり、タナトス志向であり、犯罪らしきものが隠されている。
 姉はどこに去ったのか。生きているのか。......おそらく男に首を絞められて死に、海底でアサリに食われているのではないか。
 ......妹はうすうすそれを知っている。男も知られていることをうすうす知っている。その男女が刃物を持って深夜の台所で、何事かを堪えながら惹かれあい、愛するのか憎むのか、睦みあっている。おそるべき映画がここにある。
  『ついのすみか』は、『実録 阿部定』(75年 監督田中登、脚本いどあきお)、『愛のコリーダ』(76年 監督脚本大島渚)にも通じるような、死の気配が滲む性愛の映画である。二十代なかばの若者が撮る映画ではないと思えるし、作り手がすでにこのときこのような人生経験を持っていたとは思えないが、井川さんの独特で真摯な映画探求に、日本の性愛映画のエッセンスが降りてきていたようにも思える。
 『ついのすみか』は映画作家井川耕一郎の最初期の作品であり、そこには00年制作の『寝耳に水』やそれ以降も追求される主題が出揃っている。もっとこのひとのつくる映画が観たかった。そのことは1986年にとっくにわかっていたことだったといま確認する。

上映会「井川耕一郎の仕事部屋」 2022年7月30日アテネ・フランセ文化センターにて上映