『アイ・アム・サムバディ/I AM SOMEBODY』マデリン・アンダーソン
板井仁
[ cinema ]
冒頭、ロングショットで映し出されたチャールストンの街とともに、ナレーションは、この地が南北戦争の火蓋が切られた場所であり、現在は観光地として多くの観光客で賑わっていることを語る。カメラは、橋や船、馬車やそれを曳く馬、サムター要塞の記念碑や銅像、砲台跡などを映しだすのだが、そこに集う観光客の身体や顔、その表情は、暗くつぶれて判然としない。こうした一連のショット、観光地においてあらゆるものごとを消費する存在のほうではなく、街を美しい観光地たらしめている諸事物に焦点をあてて開始される『I AM SOMEBODY』は、アヤナ・ドォージエの言葉を用いるならば、既存のイメージを「撹乱」することを企図するものである(subversive recordsのWebサイトを参照)。こうした「撹乱」は、ナレーションが語るように、この街をマジョリティの視点ではなく「貧しい黒人の視点から」捉えることによってなされるのである。
個々の人間の顔が映しだされるのは、回転する馬車の車輪がストライキ参加者たちの足元へとディゾルブされ、ついで彼女ら/彼らの顔、そしてその身体が捉えられるときである。ここで映しだされる黒人たちは、移動手段としての馬車やそれを曳く馬に重ねられながらも、それぞれの存在が固有の顔を持つ人間であることが示される。黒人は白人にとっての手段ではないし、目的のために消費される道具でもない。「私は尊重されるべき人間であるI am Somebody」なのだ。ここで、馬車の車輪に重ねられていた参加者たちの前進する足は、たんなる手段としてではなく、マジョリティに対する闘争のモチーフとして現れる。
マデリン・アンダーソンが制作した本作は、チャールストンのサウスカロライナ大学医学部附属病院で働く黒人労働者たちが1969年に行ったストライキを扱っており、自身が撮影したフィルムのほか、おそらくはマジョリティ側が撮影したであろうテレビ局のニュース映像を用いて構成されている。このストライキは、正当な賃上げとそれに付随する労働組合結成の要求の結果、12人が不当に解雇される事態に至ったことに端を発する。ストライキ参加者によれば、同一の労働を行なっているにもかかわらず、黒人は白人よりも低い給料しか与えられないのだという。闘争によって彼女ら/彼らが目指すことは、白人と同一の賃金を得ることだけではない。そのような搾取をもたらすレイシズムに抗すること、「人種によってではなく人間として存在を認められること」である。
公民権法の成立以後も、黒人が存在を認められていないことは、病院の代表者による「出勤しようとした職員の中には脅威や恐怖を感じた者もいる」という発言において明らかだ。武器を所持せず「歩き、話し、歌う」ストライキ参加者に対して「脅威や恐怖」を感じるのは、黒人という存在を人間としてではなく、白人の絶対的外部として、「恐怖」の対象としてイメージしているからであり、そうした身体表象は警官(その多くが白人男性である)による暴力的な排除を正当化さえするだろう。なぜならそれは、予防的に「白人性」を守ることであるからだ。
しかし映画は、社会的労働における闘いであるストライキ、つまり黒人に対するレイシズムだけを扱うものではない。病院の前でストライキを行うシーンは、途中、家事労働をする黒人女性のシーンと交差される。あるシーンでは、部屋の中の鏡を拭き、湯を沸かしてコーヒーを淹れる黒人女性の姿があり、また別のシーンでは、夫が仕事に行ったあと、家事労働のすべてを行うことを余儀なくされている黒人女性の姿がある。自身も黒人女性であるマデリン・アンダーソンは、彼女たちの声をインターセクショナルな視点から映し出すことで、黒人女性であることの困難が、レイシズムに抗するだけでも、セクシズムに抗するだけでも解決されえないことを明らかにする。映画の中でマーティン・ルーサー・キングJrのパートナーであったコレッタ・キングが語るように、黒人女性は「あらゆる女性労働者たちの中でも最も差別的な扱いを受ける存在」なのだ。黒人女性が映画監督になることが困難だった当時、自分たち黒人女性の視点からストライキ参加者を映し出し、あるいは編集し、既存のイメージを「撹乱」させることで、アンダーソンは黒人女性たちの場を切りひらくことを目指した。それは、黒人女性たちが社会においてマジョリティの手段としての存在に押しとどめられることなく、自由に「歩き、話し、歌う」ことができる場を展開することである。