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August 9, 2022

『Underground』小田香
三浦光彦

[ art ]

 札幌の地下歩道が、それを初めて見る人たちにどこか無機質で、他の都市の地下空間と違った印象を与えるとしたら、それはその直線性と無時間性によるものかもしれない。この空間は、例えば渋谷の地下のように電車の乗り換えを主たる目的とするスペースというよりは、冬の間の人々の移動の負担を減らす目的も兼ねているため、札幌駅からすすきのに至るまでの全長1900mにもなる通路が一直線に続いており、札幌の碁盤の目状の道路に沿って設計されているため、曲線がほとんどない。また、外に出ないことを想定して作られた空間であり、日光が入ってくるような場所も少ないために、時間的な指標も欠いている。そのため、先の見えない長い通路が柱によって支えられているこの空間は何らかの地下水路か地下神殿のような、一種の荘厳さと不気味さを携えている。だが、その一方で、多くの人々が行き交うこの空間は、札幌市民の生活に深く根ざしている。通路周辺のビルは基本的にこの地下歩道と直結しており、とりわけ厳しい冬の間は市民のライフラインとなっているばかりでなく、古本市場やアイヌ関連のイベントが行われるなど、都市の文化事業スペースとしての役割も担っている。無機質な地下空間に、人々の生活が確かに息づいているという二重性が、この地下歩道を奇妙な空間にしている。
 札幌の西2丁目地下歩道映像制作プロジェクトの一環として、今年度から展示されている小田香によるインスタレーション『Underground』は、地下歩道が持つこの奇妙な二重性を、映像というメディアの力を利用して激しく倍化させることによって、「地下(Underground)」という場所の意味を、そこを行き交う人々に問いかけているようにみえる。横幅約12メートルのスクリーンは4分割され、一番左のスクリーンには巨大な神殿のような場所に溜まった水が妖しく光っている様子が、左から二番目のスクリーンには鉄骨が組み立てられた貯水池のような場所が、右から二番目のスクリーンには線路脇から撮影された地下鉄が走り抜けていく様子、地下鉄の車両室や客席などが、一番右のスクリーンには地下水路のような場所を人が歩いている姿が映し出され、スピーカーからはノイズと共に水滴の落ちる音が聞こえてくる。撮影に使用された地下空間の実際の場所は左から、札幌駅北口にある融雪槽、モエレ沼公園の噴水地下、札幌の地下鉄の車両基地、雨水排水路のようだ。だが、単にこれらの空間を撮影しているのみならず、これらの地下空間それぞれにプロジェクターから映像を映写し、その様子が撮影されている。つまり、このインスタレーションは以下のような複雑かつ再帰的なメカニズムを持っている。まず、①地下空間に映像を映写する、②そして、その様子をカメラで撮影する、③更に、その撮影された映像を、今度は地下歩道において上映する。これは映像のみでなく、音声のレベルでも徹底されている。制作陣のトークイベントによれば、スピーカーから流れる音声は、単に現場で撮れたものをミックスしているのではなく、映像同様に、①他の場所で録音したものを地下空間でスピーカーから流す、②その反響を含めた音をマイクで録音する、③そして、録音されたそれらの音をミックスし、地下歩道で流す、といった手順がとられている。映画、ないし、映像というのは、マイクやカメラで記録した過去を、現在において映写するという奇妙な時間性に引き裂かれたメディアだが、このインスタレーションは映像や音声の再帰性を過度なまでに強調することによって、現在と過去が折り重なるような、メディアに内在する時間の二重性を露呈させる。
 撮影に使われた融雪槽や噴水地下、雨水路といった場所は、市民生活のすぐ側にありながら、日常的な風景から完全に隔絶されており、これらの空間は、地下歩道同様に無機質で、時間性を欠いている。だが、これらの地下空間に、プロジェクターから映像が投影されることによって、無機質な空間は次第に変容しはじめる。そして、それに伴い、その様子を撮影した映像がインスタレーションとして映し出される地下歩道の時空間の厚みも増していく。一番左、融雪槽に溜まった水にはアブストラクトペインティングのような抽象的な映像が水面に映し出されては消えていき、宇宙のような幻想的な風景が作り出されていく様子が、その隣、モエレ沼噴水の地下では、壁面に微生物を拡大したような映像が映し出されている様子が、それぞれ捉えられている。同様に、一番右のスクリーンには、何かの民族の仮面のようなものや宇宙から撮影された地球の様子と思しき映像などが、雨水路の壁に映し出されていく。あたかも、これらの空間に地層化された宇宙レベルの記憶がそこに投影されているかのような雰囲気を帯び始める。さらに、一番右のスクリーンには右から二番目のスクリーンに映し出されていた地下鉄が駆け抜けていく映像が、水路の壁面にプロジェクターからの投影によって映し出される様子が捉えられる。撮影されたものが映写され、その様子が再び撮影され、また映写され......上述したようなメディアの再帰性が、目眩のするような現在と過去のフィードバック回路を作り出し、際限なく時空間を膨張させていく。
 宇宙的な広がりを見せる3つのスクリーンに対して、右から二番目のスクリーンの映像だけは少し趣が異なっている。地下鉄の車両室に、電車の窓から撮影された風景のようなものがプロジェクターによって投影されている。よく見ると、そこに誰かの手の影が重なっている。その影を作り出していた何者かの手がスクリーン右側から伸びてくると、それに呼応するかのようにプロジェクターから手の影の映像が投影される。実体、影、映像、3つの手が戯れはじめる。今度は、地下鉄の客席の一部に随分昔のホームビデオのような映像が投影されている。再び左から手が伸びてくる。手は失われてしまった過去を何とか掴もうとしているかのように客席を優しく撫でている。次第に手の影は、実体から遊離していき、果たして実体の影なのか、それともプロジェクターから映し出された映像なのかの判別がつかなくなっていく。手の影は現実と映像の狭間を彷徨うかのようにして、次第に他のスクリーンにも侵食しはじめる。
 地下鉄に映し出されるホームビデオのような映像は、札幌にあるミニシアター、シアターキノの支配人夫婦が個人所有していたものであり、実際の札幌の記憶であるようだ。札幌という土地の地下と、そこに確かに生活していた人々の記憶/記録から出発して、手の影は札幌という街が出来る前、それどころか人類が生まれる前、地球が生まれる前の記憶へと、過去と現在というふたつの時間に引き裂かれた映像というメディアが持つ力を利用して、遡り、その形に触れようとしている。そして、その映像が今度は、地下歩道へと映写されるとき、無機的に見えたその空間は、単に人々の生活に根ざしているという域を超え、札幌という土地の、地球の、宇宙の歴史を胚胎した有機的なものへと変容していく。『鉱 ARAGANE』、『セノーテ』などの作品において一貫して、「地下」を主題としてきた小田香の試みは、そういった空間にカメラを向けることによって人間には感知できないレベルの時間や記憶、いわば世界全体の片鱗に触れるようとするという途方もない試みであったように思える。だが、映画という形式の性質上、その試みを享受できるのは映画館に足を運んできた観客たちだけであった。だが、『Underground』、まさに「地下」という題名が冠せられたこのインスタレーションは、映画館という装置を飛び出し、地下歩道に堆積している時間の厚みを提示することで、何の気なしにそこを行き交う我々をも、その時空間の膨張の渦に巻き込んでいく。そこには、地下を移動する人々の些細な営為でさえもが、この世界に記憶され、蓄積されていくのだという確かな感覚がある。


西2丁目地下歩道映像制作プロジェクト

  • 『憧れの地』アピチャッポン・ウィーラセタクン 三浦光彦