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September 19, 2022

見えない距離を踏破する クロード・ミレールについて 中編
梅本洋一

[ cinema ]

距離の認識

IMG_6923.JPG クロード・ミレールの処女長篇 『一番うまい歩き方』が公開されたのは1967年のことである。友人のリュック・ベローとミレールが共同でこの映画のためのシナリオを書き終えたのが72年のことだから、実際の撮影にこぎつけるまで実に3年以上の歳月が費やされていることになる。ミレールが映画に接近をはじめたのが60年代初頭のことだから、78年までには15年近い年月が経過している。ミレールは映画を前にした時間的な距離の前に立たされている。プロデューサーを求めてミレールは走り回るのだが、彼のシナリオを映画化しようとする者はなかなか現われない。ミレールは常に距離につきまとわれている。彼と映画との距離。シナリオと映画との距離。様々な距離感がミレールの来たるべき映画を二重三重に包み込む。インタヴューを受けるとき彼が常に口にする映画への絶望感は、彼が映画狂であればあるほど距離として認識されるのだ。そしてクロード・ミレールの来るべき映画もまたそうした距離感を背景にしなければならない。彼と映画の間には、絶望的な距離がある。そして、ミレールの映画を観るわれわれもまたその距離に無意識ではいられないのだ。ミレールは決して映画の未来を切り開くような作家ではない。たとえばジャン=リュック・ゴダールなら行なわないだろう綿密なシナリオ作成作業にはじまり、正確極まりないストーリーボードの作成を経て、撮影を開始する。そうした方法の側面で彼は保守的な映画作家だとさえ言える。誰でもキャメラを廻しさえすれば映画が撮れてしまう時代に、彼はなかなかキャメラを廻そうとさえしない。彼の処女作『一番うまい歩き方』も、たとえば処女作ゆえの瑞々しさなる表現とはほぼ反対の破綻がなく無駄がない演出があり編集がある。考え抜かれた物語の構成に当てはめられた適切な映画、彼の作品はどれもそう見えるかもしれない。もちろんそうした技術は忘れかけられようとしている現代にあって、それだけでもクロード・ミレールの映画は貴重だとも言えるだろう夏休みの林間学校の2人のインストラクター(パトリック・ドゥヴェール、パトリック・ブシュテー)の物語を描いた処女作『一番うまい歩き方』と、中部フランスに住むサラリーマン(ジェラール・ドパルデュー)の狂気の愛を描いた2作目の『愛していると伝えて』の間には物語の上では何の関係もないし、クリスマスイヴの晩に少女殺害の疑いで取調べられる裕福な公証人 (ミシェル・セロー)と刑事(リノ・ヴァンチュラ)を描いた3作目の『勾留』と、連続殺人犯の若い女性(イザベル・アジャーニ)を尾行する私立探偵 (ミシェル・セロー)の物語である4作目にあたる『死への逃避行』の間には、同じミシェル・セローを主役にあて、端役に顔を出すのが同じギ・マルシャンであることを除いて、やはり物語の上では何の共通点もない。物語はどれも重厚なまでに練り上げられており、演出も無駄がない。ブリュノ・ニュイッテンとピエール・ロムによって担当される映像も現在のフランス映画の中における最高峰を示しているだろう。
 クロード・ミレールの映画をそのようにだけ示せば、それらは高々、レヴェルの高いフランス映画とされるに留まってしまう。脚本、演出、演技、撮影、編集等様々な分野に分割され、それぞれの点数が高ければそれで傑作と呼ばれてしまうような水準の映画にミレールの映画は留まってしまうのだ。だとしたらクロード・ミレールは、ベルトラン・タヴェルニエと同等だろう。タヴェルニエの作品群もまたどこといって破綻がなく、その映像は美しいとさえ呼べそうだ。だが、われわれがもしミレールの映画に捕えられるとしたら、それは様々に分類される水準の映画にそれが属しているからではない。物語はどれも全く異なるものの、どの作品にも同じような運動が潜んでおり、その運動にこそわれわれは捕えられるのである。その運動とはミレール映画における距離の映像化である。
IMG_6924.JPG ミレール映画における主人公が常に2人であることにわれわれは注目しなければならない。『一番うまい歩き方』ではパトリック・ドゥヴェールとパトリック・ブシュテーがその2人であり、『愛していると伝えて』ならジェラール・ドパルデューとドミニック・ラファンがそれに当たるだろうし、『勾留』ならば、リノ・ヴァンチュラとミシェル・セローがそれに当たるだろう。彼ら2人には常に必ずある対比が存在しており、その関係性はそのまま距離に転化する。自分の部屋で女装している所を見られてしまうパトリック・ブシュテーは、女装の現場を見た張本人であるドゥヴェールにある種の恥辱を覚えるだろう。愛しても愛しても 遠去かる女性ドミニック・ラファンを追うジェラール・ドパルデューは、彼女とすごすための無人の家まで設けてしまうのだ。刑事リノ・ヴァンチュラと容疑者ミシェル・セローの間にはそれだけで確実な関係が存在している。『一番うまい歩き方』のドゥヴェールとブシュテーもたまたま林間学校のアルバイトを共にしている仲でしかないのに、ヴァンチュラとセローにしても当人同志が好んで会見しているわけでもないのに、クロード・ミレールは彼ら2人がまるでずっと以前から存在しているカップルであるかのように、あるいは、偶然の遭遇が実は全く偶然ではなく必然として用意されていたように演出する。二人の関係とその距離が彼の映画になる。しかし、その距離は一定ではない。もちろんはじまりは偶然にすぎない。見知らぬ者たちが何の感情もなく同じ空間を共有するだけである。2人の間には限りない距離があるはずだ。互いを知らないのだ。けれども、知らない間、その距離が意識されることはありえない。見ず知らずの他人に街ですれ違ったとしても、互いに関係性を持ちえなければ、互いの間にある無限大の距離さえ意識されることはないのだ。互いの関係が意識されるのは、相方の間にある距離が確認されることである。
 ミレール映画にあって、その距離感は突然意識されはじめる。距離の認識が事件として用意されているからだ。
 夜。クリスマスイヴ。人々は盛装して舗道を通り過ぎる。雨が静かに降っている。暗い夜である。キャメラはひとつだけ煌々と照明が照らされた窓を向き、そこで止まる。雨はその窓に静かに降り注いでいる。警察署の取調室の窓である。刑事リノ・ヴァンチュラが夜を徹して容疑者ミシェル・セローを取調べる舞台となるのがこの場所である。偶然同じ空間を所有することになる2人の人間たちが彼らの間にある関係に気がつくのは、決まって水の要素が濃厚なこうした場所なのである。『勾留』なる題名のこの映画ばかりで、水が距離を用意するわけではない。『一番うまい歩き方』でも、『愛していると伝えて』でも水のたまったプールという場が存在し、その場こそ、2人の主要な登場人物の関係性確認の場であることは間違いない。
 水によって少しずつわれわれの目にも観えるようになる距離でみつくられた映画は、水準の映画を一瞬にして超えてしまう。ベルトラン・タヴェルニエとクロード・ミレールは比較できない。距離を切り開かない映画は、たとえその構成が巧みであり、映像が美しくとも距離の映画の前に敗北しなければならないからだ。

後編に続く

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