見えない距離を踏破する クロード・ミレールについて 後編
梅本洋一
[ cinema ]
距離の運動
〈目〉と呼ばれる初老のしがない私立探偵は、彼の所属する探偵事務所に出向く。またあの口うるさい社長に会わなければならない。仕事はまた尾行だろう。案の定、大金持の中年婦人に依頼された彼の仕事は、息子のフィアンセの尾行だった。誰も彼女のことを知らないのだ。緑が一斉に吹き出したような館の巨大な庭の草むらの影から、依頼主の息子と彼の恋人が楽しそうに語り合っ ているのを覗き込む〈目〉。2人は館にはいり、2階の広いバルコニーに出る。部屋にもどり、ドアを閉め、窓にかけられたカーテンを閉める。〈目〉は2人の様子を写真におさめる。女に焦点をしぼる。一見楽しいそうだが、彼女の目は実に哀しい。
ミレールの4作目にあたる『死への逃避行』はそのようにはじめられる。ここでも庭の彼方には河が流れており、われわれはまたしてもあの距離に出会う。ミレール映画に親しんで来たわれわれの眼は、ミシェル・セローが演ずる私立探偵 〈目〉と、フィアンセを演じる女イザベル・アジャーニとの間にある距離感をまたたく間に捕えてしまうのだ。息子パトリック・ブシュテーとアジャーニの結婚式。そこにも〈目〉は居る。結婚パーティーが花やかに行なわれている中でも、ひたすら彼女を見つめる〈目〉がそこに居る。パトリック・ブシュテーは殺害され、彼の家に属する金品が盗まれる。彼女は姿を消す。〈目〉と彼女の距離の物語はここに開始される。〈目〉の眼はひたすら彼女を追い続けることになる。大金持の息子が殺されたブリュッセルから、イタリアのローマ、地中海岸のモンテカルロ、ドイツのシャヴァルツヴァルトの温泉保養地バーデン・バーデン、さらにブリュッセルへ、そして、彼らの最終目的地である大都市の郊外へと、彼らは短い時間に信じ難い距離を移動しなければならない。彼女の出現するところには至る所死体がころがる。もちろん彼らは移動するために交通機関を利用する。車、列車は確かに映像に現われはする。けれども、それらの移動が、移動として、たとえばヴィム・ヴェンダースの映画のように登場することはない。ブリュッセル、ローマ、モンテ・カルロ、バーデン・バーデン、シャルルヴィル、多くの場所が登場し、車は走り廻るのだが、この信じ難い走破距離は奇妙なことにこちらに実感されはしないのだ。〈目〉とカトリーヌと呼ばれる彼女との間にある距離だけが生々しい現実感を伴ってわれわれにせまってくる。〈目〉は、景色を観ているのではない。〈目〉は彼女を観ているのだ。移動をくりかえしつつ、場所と場所の間の距離は不思議なことに消滅してゆき、〈目〉とカトリーヌの距離だけがわれわれに少しずつ明らかにされてくるのだ。
カトリーヌは当初、〈目〉の存在を意識はしていない。あるときは高価なスーツに身を包み、あるときは、安手のカーディガンを身にまとう彼女。髪形さえ何度も変え、名前も変える。しかし、彼女の姿形が変わり、名前が変わっても、ただひとつ彼女が変えないもの、それは彼女の喫煙草である。〈目〉が尾行の最中、常に行なうクロスワードパズルの言葉たちのように、カトリーヌの表層は次々に姿を変えるのだが、彼女の喫煙草だけは不変なのだ。
しかし、『死への逃避行』は、様々な姿を持つイザベル・アジャーニ=カトリーヌが実はひとりであることを示している映画ではない。われわれは、様々な姿形をした美しい女性が実は男を殺害し、金品を奪う殺人者であることなど、映画が開始されてものの15分もしないうちに理解してしまう。この映画は単なる物語を語る映画ではない。アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』のキム・ノヴァクが実はひとりであり、マデリン・エルスターとジュディ・バートンが同一人物であり、ジェームズ・スチュワートが死者マデリンに恋をしてしまう物語をクロード・ミレールは語っているわけではない。多くの自己同一性を備えたイザベル・アジャーニは実はひとりであることなど、われわれの問題でありはしないし、〈目〉さえ、そのことにすぐに気付いてしまう、やはり、この映画は〈目〉とカトリーヌとの間の距離をこそ描いているのだ。そして、その距離は一定であるわけではない。
〈目〉はカトリーヌの喫煙草を買い求め、突然彼女の前に出現し、箱から1本抜き出して彼女にすすめる。〈目〉とカトリーヌの関係に変化がみえはじめるのはこのときからだろう。物語の上で、ローマにおいて〈目〉がカトリーヌの犯罪に手を貸してしまう瞬間は確かに用意されている。だが、決意して煙草を1本差し出す瞬間、彼らの関係は一変するのだ。ひたすらカトリーヌを見つめることで、彼女との距離を測定していた〈目〉にとって、1本の煙草は、彼がもう彼女を見つめているだけの存在ではないことを雄弁に物語っている。それ以来、〈目〉は彼女を見つめ、彼女もまた〈目〉を見つめかえす。 彼女の近くには〈目〉の存在が常に分身のように寄りそっており、彼女も〈目〉の存在を、彼女の移動の中で常に確認するのを習慣とするようになる。〈目〉はすでにカトリーヌを尾行する存在ではない。カトリーヌと〈目〉は常に共にここに居るのだ。〈目〉は彼女の共犯者となる。1本の煙草を介して、〈目〉とカトリーヌは相互的関係になる。尾行者から共犯者になってしまう〈目〉と彼女の間の距離は、 それ以来、少しずつ近付いてゆくことになるのだ。だが彼らは互いに言葉を交す存在ではない。ひとりずつ、こことそこに存在し、互いがこことそこにあることを秘かな視線を送りあいつつ確認するにすぎない。絶対的なものとしてそこにあった〈目〉とカトリーヌの距離は、初めて双方の視線によって確認されあい測定されるようになる。
視線の距離
同時にわれわれは〈目〉が常に持っていたもうひとつの視線を思い出さねばならない。
〈目〉は必ず1枚の写真を持ち歩いている。かなり古くなって変色した写真は、小学校の女子クラス全員を写したものである。写真の裏にはそれぞれの氏名が記されており、〈目〉はその中のひとりに向かって、マリー、と毎日呼びかける。十数年前に、妻と共に彼の許を去った娘、それがマリーだ。妻に去られ、しがない探偵事務所で尾行ばかりやってきた 〈目〉、趣味といえばクロスワード・パズルだけの〈目〉、彼にとって唯一の安らぎはマリーの写真を見て、彼女の名前を呼ぶこの時間である。〈目〉の中で、マリーと彼との間の時間は完全に停止している。マリーは、常に写真の中のマリーなのだ。マリーと〈目〉の間にある時間的空間的距離はそのまま常に一定なのだ。マリーと〈目〉はそうした安定しきった関係を今日まで生きてきたのだった。
ところがカトリーヌの出現によって、〈目〉とマリーの関係に微妙な振動がおきはじめる。 妻とマリーが去ったのは、もう十数年も前のことだ。マリーが、そのまま成長していれば、そうだ、マリーはあのカトリーヌの年齢に達しているはずだ。カトリーヌはマリーだ。マリーはカトリーヌだ。娘は、あのとき、こうしていた、と思い出すばかりだった 〈目〉の行動のすべてがカトリーヌに集中しはじめる。今、〈目〉の目の前に居るのはカトリーヌ =マリーなのである。マリーの写真が〈目〉から消滅してゆくのはこのときだ。〈目〉の持物は何者かによってすべて奪われてしまう。記憶を頼りに、一晩かかって、紙の上にその写真を再現する〈目〉の姿。しかし〈目〉はその出来栄えに満足しない。今、彼にとって、写真のマリーはもどって来ない。声を出せば聴こえるはずの距離をへだてた場に、ホテルの隣室に体を休めているのが彼のマリー、つまりカトリーヌなのだ。彼女はそこに身体として存在している。
マリー、マリー。〈目〉はつぶやきながら自室の扉を開ける。突然、隣室の扉が開き、〈目〉に向けて拳銃をかまえるカトリーヌ=マリー。 「パパ!」と叫んで、彼女は階段を駆け下りる。
感情のこもった言葉が、〈目〉とカトリーヌ=マリーの間に響きわたる。絶対的だった距離は、大きく動揺する。視線と視線が衝突する。その間に拳銃と声が存在している。銃声が響くことはなかった。深夜の場末のホテルの廊下で、二人は遭遇した。
捜査の手が延びカトリーヌ=マリーが窮地に立たされる度に、分身のように影のように彼女の側にある〈目〉が彼女の逃避行を助ける。
舞台はパリの郊外ボビニーの深夜まで開いているセルフサーヴィス式のレストランだ。夜の暗さとは対照的にレストランの中は奇妙に明るく、その明るさがたった1人しかいない客を強調している。その客とはもちろん〈目〉である。ウェイトレスもほとんど帰宅しており、ただ1人カトリーヌ=マリーだけが〈目〉を見つめている。すでに捜査当局の手が彼女の周囲にも近付いており、彼女は職を転々としながら、このレストランのウェイトレスをしている。〈目〉と彼女は2人で深夜の暗さ以外何もない外に出る。パトロール・カーのサイレンが遠くで聴こえる。彼女の居所にはすでに大勢の警察官たちがやってきている。〈目〉と彼女は車で逃走しようとする。夜の郊外がヘッドライトに浮かび上がる。当局の手はもうすぐそこまで来ているのだ。カトリーヌがハンドルを握る。パトロール・カーから逃れてビル全体が駐車場になっている場所に車を乗り入れる。移動することが、はじめて距離をつくり出すのがこのときだ。
1階にはもう彼らが来ている。急ハンドルを切ると、ビルの壁が一気に近付く。ブレーキを踏もうとはしない。2階に車を回し込む。また壁が近付く。意を決して、彼女は壁に向かって直進する。2人を乗せた車は、一気に地上に転落する。〈目〉とカトリーヌ=マリーは、はじめて、互いに向きあうのでなく、同じ壁という対象を見つめることになる。それは正にこの映画の題名が示す『死へ逃避行』だったのだ。
一方的にカトリーヌに向けられていた 〈目〉の視線、ひたすらマリーの小学生時代の写真を見つめていた〈目〉の視線が示していた絶対的な距離から、カトリーヌがマリーに、マリーがカトリーヌになったとき〈目〉と彼女の間に交される測定可能な視線の示す距離へと転換し、さらにそれが互いが壁という定められた対象を同じに見つめるときの死に向いた視線の無限の距離へと変身するとき、この映画は終わりを迎える。
再生する距離
僕は映画狂だった、と発言するクロード・ミレールの映画は、ミレールと映画との間にある絶望的な距離をそのまま生きていたのだ。まず映画に近付くための距離。シナリオ作成からストーリーボードの作成を経て、実際の撮影までに至る距離。つまり、製作状況の劣悪さゆえに映画に近付くことが困難であることが認識されることによって生まれる映画への距離感。クロード・ミレールの映画への出発は、そうした距離を生きることに慣れることだった。数年間に1作という最近の黒澤明のような撮影のペースは ミレール自身が望んだものではない。彼は距離を背負って映画に生を授けたのである。その彼がひたすら距離の映画を撮り続けるのは極めて自然な成行かもしれない。『愛していると伝えて』におけるジェラール・ドパルデューがかなわぬ愛の対象としてドミニック・ラファンを選んだように、クロード・ミレールは死滅しつつある映画に愛を捧げているのだ。〈目〉であるミシェル・セローが、イザベル・アジャーニと共に生きた無限大の距離まで至る視線の距離の過程は、おそらくクロード・ミレールが映画と共に生きてきた、そして生き続けている過程と寸分違わないものであるだろう。
『愛していると伝えて』のドミニック・ラファンはヒッチコックの『サイコ』を上映している映画館の案内嬢である。そして、バーデン・バーデンのホテルでTVに視線を向けた『死への逃避行』のイザベル・アジャーニが観るのは、ムルナウの『最後の人』である。 TVを観るアジャーニを見つめるミシェル・セローの姿が、『最後の人』のエミール・ヤニングスに重なる。雨の中をひとり街をさまよい歩くあのシーンだったと思う。さらに、ミレールにおけるこうした引用の最初の例は処女長篇『一番うまい歩き方』において、談話室でくつろぐパトリック・プシュテーが目を凝らして見つめるイングマール・ベルイマンの『野いちご』である。映画狂出身の映画作家たちがよく行なうこうした引用において、ミレールは何も自らの映画狂振りを誇示しようとしているのではない。実際、各々の引用は実にさりげないし、単なるオマージュといってもよいかもしれない。「それはカチッとスウィッチを入れるようなものなんだ。僕が撮りたいと思っていた映画が現われるのだから。ベルイマンが出発点だったものだから、彼の姿がちょっと頭の中で動き回っていた。『野いちご』でシェストレムがこう言うシーンをよく覚えている。「屈辱的な夢を見て夜をすごした」というシーンだ。ちょっとこれからおこることを暗示しているような瞬間だよ」 確かにミレールは映画の引用の瞬間を、実に見事に選択している。しかし、それは一本一本の彼の映画をよりよく映画狂的に理解させようとする引用をはるかに越えている。〈屈辱的な夢〉を生きないミレールの登場人物は存在していないからである。明るいとは言い難いミレールの映画もまた屈辱的な夢そのものだからだ。昨夜のあの屈辱的な夢の記憶が映画に昇華し、ミレールの映画を観るわれわれもまたこの屈辱的な夢を生きなければならない。
映画を撮ることで解消されるはずだった屈辱的な夢の体験は、撮られた映画の中で再び生まれ落ちてしまう。ムルナウ、ヒッチコック、ベルイマンと並べられたクロード・ミレールに引用された映画の映画作家たちよりも、またミレール自身がインタヴューの中で多くのことを学んだと広言するゴダール、ブレッソン、トリュフォーより、屈辱的な夢である踏破することが不可能な距離を描いたミレールにはむしろエリッヒ・フォン・シュトロハイム的な距離を感じる、と素朴な感想を述べることさえ許されるのではないかと思う。