『コルシーニ、ブロンベルグとマシエルを歌う』マリアノ・ジナス
三浦光彦
[ cinema ]
ある古典的な楽曲を演奏する際、基本的な進行、メロディ、リズムさえ守られていれば、その他の細かい部分の解釈は演奏者に任されるのが常だろう。アルゼンチンの歌手、イグナシオ・コルシーニの1969年のアルバム『Corsini intepreta a Blomberg y Maciel(コルシーニ、ブロンベルグとマシエルを歌う)』内の楽曲「La Guitererra de San Nicolás(サン・ニコラのギター弾き)」と、2021年にパブロ・ダカルが同楽曲をカバーしたバージョンを比較してみよう。前者がイタリア訛りの独特な歌声でギターのリズムの間を引き延ばしながら埋めているのに対し、後者では三本のギターによる細かなリズムのアルペジオやユニゾンなどがメインテーマのブリッジとして、幾度となく挿入されており、オリジナルの楽曲の持つ要素を倍化しつつ、重奏的なものとして再解釈しているのがわかる。14時間の大作『ラ・フロール 花』のマリアノ・ジナス監督による最新作『コルシーニ、ブロンベルグとマシエルを歌う』は、ミュージシャンのパブロ・ダカルと三人のギターリストたちがアルゼンチンの独立記念日に集って、コルシーニの同名アルバムをカバーした様子を撮影したドキュメンタリーだ。そこでは、ダカルがコルシーニの楽曲群を再解釈するのと並行して、アルゼンチンの歴史が再解釈されていく様子が描き出されていく。
題名にあるブロンベルグとマシエルは、それぞれ楽曲の作詞家と作曲家の名前だが、映画は、監督のジナスと撮影監督であるアグスティン・メンデラハルズが、ブロンベルグによる歌詞をレコーディング室でアフレコしながら読み解く場面から始まる。二人は、ブロンベルグがフアン・マヌエル・デ・ロサス統治時代、連邦派と中央集権派の内戦が激化した時代の作詞家であったことを念頭に置きつつ、歌詞の時代背景を説明していく。その過程でジナスが、ロサスのことをファシストだとして厳しく批判し始めると、メンデラハルズが「それは偏った意見だ」として宥め始める。二人のやりとりはそのまま、ヴォイスオーヴァへと変わっていき、映像では、ダカルの演奏と交錯する形で、ジナスらが、歌詞に登場する場所や当時の歴史資料が保存された博物館を訪れる様子が映し出されていく。ヴォイスオーヴァーの会話はダカルも加えた三人によるものとなり、三人は歌詞を半ば偏執狂的に読み取りながら、ジナスが極端な意見を述べ、それに対して二人が反駁するというやりとりが延々と繰り返される。ロサス時代を古き良き思い出として美化しているとブロンベルグの歌詞を批判するナレーションと、当の批判に晒されている美しい音楽とが交互に鳴り響き、反省と陶酔の狭間で映画は絶え間なく揺れ動く。さらに、歌詞の読解と共に、当時の様子を再現したコスチュームプレイを撮影するためのリハーサルの風景など、プリプロとポスプロの様子が映画そのものに間断なく挟み込まれ、フィクションとノンフィクションの境界が融解していくのと共に、ロサス時代のアルゼンチンの歴史が複雑な様相と共に浮かび上がってくる。
だが、映画は決して、抑圧された歴史を暴き出すといったようなシリアスなトーンからは程遠く、それどころか、むしろ、遊戯的な感覚が全体を通じて貫ぬかれている。一人が極端な意見を述べ、それに対して、二人が別の意見を提示するという、一見安易な相対主義に陥りかねない三人によるナレーションがそういった危険性を回避しているのも、映画全体を通じて、語られる内容、言説が、その遊戯的かつ音楽的とも言える語り方によってひたすらに撹乱されていくからだろう。直線的な物語をモノローグとして語るのではなく、現実と表象、現在と過去の関係性を問いただし、声を複数化して、物語=歴史が生成される過程をひたすらに暴き続けること、そうすることによって、別の歴史を立ち上げるのではなく、歴史の語り方そのもののを絶え間なく思考しようとすること、それこそがジナスが自身に、そして観客に課した倫理であるように思われる。だからこそ、この映画はただの音楽家、あるいは、アルゼンチンに関するドキュメンタリーとしての域を軽やかに超えていく。ジナスらが歌詞に登場する街を訪れようとドライブしているとき、カメラは街中で起こっているデモの様子や貧困に喘ぐ人々を捉える。その光景が、この映画の中に置かれるとき、それは単なる現在が抱える問題の一部を切り取ったものとしてではなく、不可避的に、歴史への反省を促す光景として映し出されるだろう。今目の前にある景色から出発して、歴史について別様の語り方を発見しようと試みること、これは陰謀論的言説が流布し、ポスト・トゥルースと呼ばれるこの時代を突き抜けるために最も必要な力能なのではないだろうか。