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October 2, 2022

『大いなる運動』キロ・ルッソ
三浦光彦

[ cinema ]

 映画冒頭、ボリビアの首都ラパスの光景がロングショットで映し出されるのと共に、目覚まし時計のアラーム、クラクション、犬の鳴き声、街全体を行き交うケーブルカーの駆動音といった、活気あふれる都市の喧騒が左右のスピーカーから鳴り響く。しかし、カメラが都市へと近づいて行くのに並行して、鳴り響いていた街のリズムは徐々に間伸びしていき、最終的には、リズムを失ったドローンミュージックへと変貌していく。ラパスの中心では、ボリビア最大の鉱山、ワヌニ鉱山の鉱夫たちが労働環境の改善を求めてデモを起こしている様子が捉えられる。映画の主人公エルダーはこのデモに乗じ、職を求めてラパスへと移動してきたようだが、その顔にはもはや抵抗の意志など微塵もなく、ただ耐え難い疲労と空虚のみがそこに刻み込まれている。エルダーはラパスにいる名付け親の伝手で、物資の運搬の職を得ることになるが、ただただ物を媒介するだけの運動をひたすら繰り返すうちに、エルダーは原因不明の病に冒され、徐々に衰退していく。
 映画に捉えられたラパスの風景は、一見活気で溢れかえっているようでありながら、実際には近代と前近代の狭間で引き裂かれ、街全体が機能不全に陥っているように見える。物と人が溢れかえっているにも拘らず、それを有機的に機能させられるだけのインフラやテクノロジーは揃っていないため、安価な労働力に頼らざるを得ず、近くの森には、街から出た大量のゴミが廃棄されていく。名付け親が、病に倒れたエルダーを連れて病院へ行き、「彼は悪魔に取り憑かれてしまっている」と主張するのに対して、医者は「現代医学では、悪魔なんて概念はない」と一蹴してみせるが、明らかに設備不足のその病院では、結局、病気の原因を突き止めることができず、精神的な要因によるものと断定し、病を治す術を持っていない。人間が物や金を交換するのではなく、もはや、人間が物や金によって交換されているかのような状況が描き出されていく。本作で最も印象的な場面は、街の人々が唐突に、80年代風のチープなシンセミュージックに合わせて、マイケル・ジャクソン「スリラー」のようなダンスを踊り出す場面だろう。映画のストーリーから完全に逸脱したこの場面は、資本主義の奴隷になった人々が夢見るユートピアのようにも、或いは、まさしく「スリラー」のゾンビさながら、疲弊しきった身体が半ば機械的に活力を欠いて動き出す悪夢のようにも見える。
 映画後半、都市から隔絶された森で一人で生活している魔術師か祈祷師のような男が、病に冒されたエルダーを治すために、まじないの準備をする姿が捉えられる。前半とは打って変わって静謐かつ雄大な、ラパスを覆う自然が映し出されていく。大雨がラパスを襲うと、所狭しと道に並んでいた出店の数々はビニールシートで雨を防ぎ、その機能を停止させてしまう。結局、活気的に見える都市も自然に抗う術を知らない。しかし、この映画は単にラパスの近代化を批判して、前近代的なものへの回顧を称賛するといった至極単純な主張をしたいわけではないだろう。映画のラスト、祈祷師の男が雨の中で一人、病に冒され、意識を失ったエルダーの元へと向かい、まじないをかけ始めると、カメラはエルダーの顔にクロースアップしていき、オーバーラップで画面が切り替わっていく。映し出されるのは、鉱山の風景だ。鉱物を運んでいくベルトコンベアーのモーター音にいくつもの機械的・工業的な音が重なっていき、インダストリアルテクノのような音楽を形造りながら、物凄いスピードでテンポが上がっていくのと同時に、カットの切り替わりの速さもそれに伴って上がっていく。音もイメージも、もはや判別が付かなくなってしまうほどにテンポが上がりきると、音楽は静止し、今度は打って変わって民族音楽調のリズムが流れ出すのと共に、ラパスの市場の様子がカメラに捉えられる。細かくビートを刻む太鼓の音の上に、不規則なリズムでやや不恰好なブラスの音が重なっていく。映画冒頭のドローンとも、人々が踊り狂っていたシンセミュージックとも、先ほどまでのインダストリアルテクノとも全く違う、複数の異なるリズムを同時に響かす有機的な音楽が流れ出すのと共に、カメラは市場の人々の手に焦点を当てていく。売り物の農作物を触る手、金の受け渡しをする手、街中で行き交う人々とコミュニケーションを取ったり、倒れている人々を優しく起こそうとする手。ここでは、決して資本主義の破壊や前近代への回顧が主張されているのではない。そうではなく、資本主義の只中にありながらも、その機械的な速さに流されずに、そこから手作業によって有機的なリズムを取り戻すこと、ブリコラージュによって都市を描きなおすこと、それが為されたとき、速さに疲弊したエルダーの身体は再び息を吹き返すのだ。

ImageForumFestival2022にて上映