《第35回東京国際映画祭》『ザ・ウォーター』エレナ・ロペス・リエラ
秦宗平
[ cinema ]
水が女に入ってくる、水が女に恋をする、水が女を連れ去っていく、奪い去っていく......スペイン南東部のある小さな村で女性たちが語り継ぐ神話は、村に大洪水がやってくるたびに、宿命をもって生まれてきたある女たちが消え去ってしまうというものだ。きっと水にさらわれるか、対決する運命にあろう、主人公のアナを見つめていると、外から女たちに影響する水だけではなく、女たちが自らの身体に抱えんでいる内なる水も存在するように思えてくる。
神話はすぐには映像のかたちをとらず、口伝えに伝説や噂話として広がり、しばらく、水は女たちの語りのなかだけにある。それでも、見えない恐怖は嵐を予感するうちに増幅し、語りの上の水は徐々に迫力をおびていく。
土地の女性たちが観客の方へ、それぞれが知る神話を語る場面がいくつも挿入される。彼女たちは、運命にさらされた女たちのことを伝承として解釈し語るだけでなく、時としてその女たちにどのようにかかわったかという、彼女たち自身の行動をほのめかす。運命の女と伝承者のあいだに、言葉によるつながりが浮かび上がる。
ところで、冒頭に配される、若者たちの談笑のシーンを最後にして、性別を問わない集団はこの映画にほとんど登場しない(それゆえ、例外的に終盤、空き地に出現するクラブで若い男女の群れが音楽とダンスに狂乱し、豪雨とともに離散する場面がドラマを盛り上げる)。冗談を言い合う若者たちのそばでどぶ川を横切った黒い動物の死骸は、水の襲来を予言するだけでなく、その後、レモン畑で恋に落ちるアナとホセに、あらかじめ亀裂を約束していたかのようだ。そこかしこで寝そべって愛し合い、お互いの未来を言葉少なにも想像し合うアナとホセのすばらしいデートに立ちはだかるのは、神話とアナの内なる水への慄きばかりではない。ホセの男ともだちは、母と祖母と女三人で暮らすアナを「魔女だ、やめておけ」と簡単に遠ざけ、レモン農家を営む、いくらか思慮深い男に見えるホセの父親ですら、息子を想うがゆえか、後継者として仕事に身を入れてほしいと理由をつけては、結局、息子と恋人の溢れ出る愛をせき止めようとしてしまう。
ついに嵐が襲来し、だんだんと村の水嵩が増していく。解像度の低いニュース映像やスマートフォンの縦型動画がまず洪水の様子を示すと、やがて通常のカメラによって、押し流された車や台無しになったレモン畑が写し出される。水の流れていく方向にカメラを据え、ゆっくりと川面をすべっていく無人のショットが、映画の前半に二度三度、唐突に挿入されていた。そこには女を飲みこもうとする水の意思など、むろん読み取るすべはない。あらゆる象徴として人々に影響する水も、気まぐれにそこを漂い、語りのなかにしかなかった水からさまざまな位相を経て、現実の災禍として現前する。
アナと氾濫する水は、おそろしくも、もはや空疎な対決を開始する。水はただ、とめどなく流れる。浸水した道路をまっすぐに突き進む彼女は、流れる水に身を任せ、一方で溢れる川に半身をつけた彼女は、身体にかかる抵抗に逆らう。どちらにあっても、アナは鋭いまなざしを正面に投げ、強く歩きつづける。そして、物語を語ることをやめないと宣言する。
水と女、愛と死といった大文字の主題にさまざまな位相の語りと映像で挑むエレナ・ロペス・リエラは、自らが生まれ育った土地に生きる若者、親類や友人たちと過ごした長い親密な時間をもって、若者たちの淫靡ではじけるような青春を活写し、女たちの神話の証言にこもる熱情を見事にとらえた。新しい歴史にむかって、過去の運命の女たちも等しく自分自身に深く同化させながら、村からの解放を激しく希求するアナの姿は、嵐が過ぎ、水にぶつかって反射する光と重なってまぶしい。