《第4回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》『ドン・ジュアン』セルジュ・ボゾン
結城秀勇
[ cinema ]
結婚式の当日に結婚相手が現れなかったロラン(タハール・ラヒム)は、その後出会う女性の片っ端から、失踪した恋人ジュリー(ヴィルジニー・エフィラ)の面影を求めてしまう。......と書けば誰しもヒッチコックの『めまい』(1958)を想起してしまうような序盤部分だが、実際に映画を見ているときの感覚はだいぶ違う。『めまい』においてもオリジナルとコピーの転倒が起こるとはいえ、『ドン・ジュアン』のそれはさらに徹底していて、観客はジュリーの顔などたった一度見たきりなので、たとえようやく"本物"のジュリーの顔が逆光で潰れた影の中から現れたとしても、それまで嫌というほど見た"偽物"たちとなにか決定的に違う徴など見つけようもない。
前作『マダム・ハイド』ではジキル博士の性別が女性になっていたように、『ドン・ジュアン』では舞台でドン・ジュアンを演じる俳優ロランは、稀代のモテ男から恋人に似た(?)女性たちに色目を使ってはビンタされまくるキモい男になっている、という転倒が起こっているなどとも言えそうなのだが、より重要な転倒はロラン=ドン・ジュアンとジュリー=エルヴィールとの関係性の方にある。戯曲では、他の女を求めて去ったドン・ジュアンをエルヴィールが追ってくるが、ロランは去ったジュリーを追い求める。いや、この映画の構造をより正確にいうなら、ロランがどこに行こうともジュリーのイメージが「待ち受ける」と言った方がいいのかもしれない。
つねに他の女を求めたドン・ジュアンと同じ女を求めるロランとは真逆のようでいて、似たような欺瞞を抱えている。出会う女性の片っ端からジュリーとの同一性を見てしまうロランは、他の女のために妻を見ようとしないドン・ジュアンよりも、自分の愛するジュリーをよく見ているなどと言えるのだろうか。彼女への愛を歌い、再び現れた彼女とデュエットするロランだが、結局ジュリーを含めたあらゆる女性をきちんと見てなどいないのだ。かつてロランに捨てられた女の父親は、そんな彼を咎める。「女性になんて態度だ」「どの女性だ?」「全員だ」。
だからこそ、ジュリーがロランの元を去ることになる直接的な理由、彼が他の女を見つめたという行為が非常に重要な意味を持つのかもしれない。しかしそれは、本来ジュリーに向けられるべき視線が他の女に向けられたからでも、その視線が向けられるとき発生しているに違いない感情によってでもないのだ。ロランが他の女を見つめるとき、必ず彼は先行する音に反応する。窓から聞こえてくる鼻歌や、グラスが砕け散る音が、彼のあの微笑みに変わりそうで変わらない顔面の引き攣りを引き起こすのだ。それはこの映画の冒頭で、本来登場人物には聞こえているはずのない劇伴音楽(携帯のバイブ音によって中断される)につられているようにふわふわ動く彼の手や顔に通じている。
『フランス』の兵士たちが同じ軍服に包まれ、しかし彼らが歌を歌うたびに軍隊ではないなにかに変わっていってしまったのとは真逆に、何者にでもなる俳優であるはずのロランは、歌を歌うたびにただの俳優でしかいられなくなる。ドン・ジュアンという役柄のせいでもなく、ジュリーのせいでもなく、自らが歌う歌と聞こえているのかどうかもよくわからない音によって、俳優でしかいられなくなったロラン。だとすれば、彼が俳優を辞めたときに初めて、すべての女性にジュリーを見ることをやめて、ジュリーの中にすべての女性を見出すのも、当然なのかもしれない。