《第35回東京国際映画祭》『輝かしき灰』ブイ・タック・チュエン
作花素至
[ cinema ]
ベトナムの都市ではなくメコン・デルタの田舎が舞台ということもあり、画面に次々と現れる見慣れない景色や風物がまず目を引く(見ている私の勝手なエキゾチシズムや観光趣味と言われればそうかもしれない)。家々は川に面している、というよりいくらか水に浸かるくらいそれに接続していて、人々は舷側が水面ぎりぎりの高さしかない小舟を生活の足にしている。鬱蒼として視界を極度に制限する熱帯雨林は家並みの間に広がっているのではなく、むしろ森の中に村が埋もれていると言ったほうが適切だ。そこに三組の男女の生活が展開する。そのうちの一組、ニャンとタムが結婚式を挙げた夜、彼らの友人であるホウとズオンが葦の生い茂る川縁に浮かんだ小舟の上で性交するシーンが印象深い。ホウの上に覆いかぶさったズオンの額のヘッドライトが女の顔を至近距離から照らし出す。女は眩しそうに顰めた顔を手で守り、最後はライトを彼の頭からもぎ取って川へ投げ捨てる。男性の支配と女性の従属という関係性、そしてそれに対する異議申し立てをこの映画が問題にしていることがはっきりとわかる優れた演出だと思う。さらに直後、ズオンは自分が今まさに抱いているホウではなく、その夜の花嫁であるニャンの名を叫ぶのである。
二人はホウが妊娠したことで結婚するが、ニャンのことを忘れられないズオンはホウを顧みず、沖合にある定置網の監視所(海上に突き出た杭の上にぽつんと小屋が乗っている光景はどこかお伽話めいている)に半ば引きこもり続ける。ホウは深く傷つくが、彼のために忍従と待機の生活を続ける。一方、幸福に見えたニャンとタムの家庭においても、娘の死をきっかけにタムの中で何かが壊れてしまったことで、ニャンは彼に振り回され、生命さえも脅かされるようになる。そしてもう一組、かつて少女を暴行して服役した後、仏門にすがる男と、彼からどうしても離れることができない被害者の女性との関係が描かれる。
公式プログラムに寄せられた監督のメッセージによれば、現地における男女間の不平等に向けられた批判の意識は明確である。とはいえ映画の中では、女性たち一人一人の葛藤は生々しく伝わってくるものの、それを構造的に強いるものに対する注釈がやや稀薄に感じられる。男のヘッドライトは正当に跳ね除けられたが、そこから先の話となると、彼女らは自らの困難の正体をつかみきれず、それを表明したり、抗議したりする術を持たないようだ。一方で、男性たちも典型的なマチスモを体現しているというよりは、逃避や自己の滅却へと向かう何らかの危機に見舞われているように見える。彼らは自らの内なる問題に没入し、妻たちを傷つけ続ける。
強い抑圧のひずみはやがて炎となって画面に噴出する。これは水の映画であるとともに、火の映画でもある。燃え盛る炎は、静かな村の底に沈んでいた憎しみあるいは悲しみの突沸そのものとして観客の目に映る。