《第35回東京国際映画祭》『This Is What I Remember』アクタン・アリム・クバト
作花素至
[ cinema ]
記憶を失くして二十数年ぶりに故郷に帰ってきた老齢の男と、彼を迎える息子一家や旧友の老人たち、そして元妻の物語。だがドラマやそこから窺われるテーマなどよりも数々のショットが印象に残る。画面の構図の厳格さとか、フォトジェニックで情緒的な一枚絵としての美しさとかではなく、被写体とカメラとの距離感、そしてワンショットの中で流れる時間が好ましい。巻頭の、白く塗られた木々の根もとだけをとらえた無人かつ無音のゆるやかな移動ショット、それに続けて「This Is What I Remember(これが私が覚えているものだ)」というメインタイトルが入るところから、観客は早くも映画の風変わりなリズムに乗せられる。
他にいくつか気に入ったショットを挙げるとすれば、小川のほとりで記憶喪失のザールク(監督のアクタン・アリム・クバト自身が演じている)と旧友たちが昼間からウォッカの瓶を空けているところを対岸からとらえた長回しのロングショットは実に楽しげだし、一向にコミュニケーションをとろうとせずトラブルを起こしてしまうザールクのことで途方に暮れ、薄明の土手の上に蹲る息子クバトと、彼に寄りそう妻の姿を一貫して背後からとらえたツーショットは、小津のフィルムで繰り返し目にするあの並んだ背中を彷彿とさせる距離から撮影されている。また、家族のピックアップトラックをはじめとして自動車の内外のショットが多いのも特徴で、井戸水を汲み上げているようだが詳しくはよくわからない小さな滝が野原の真ん中にあって、トラックが円を描きながらその下を何度もくぐって洗車をするショットには確かな運動の魅力がある。
映画は後半になると、地域の実力者と再婚したザールクの元妻ウムスナイの心理的葛藤や、イスラームの信仰とのかかわりにも焦点を当てるようになり、感情を主軸とする「普通」のドラマに少し近づく。それでもザールクは最後まで一言も口をきかず、その表情はまったく変わることがない。ラストシーンでは、ウムスナイの歌声に反応した彼が一瞬、記憶を取り戻した(少なくとも初めて触発された)ようにも思われる素振りを見せるが、単なる偶然ではないと言い切る証拠もない。彼の心の内は見えないままで、そのことは彼を木々や川と同じ自然の物象の仲間に近づけるだろう。また、仮にあの時、彼がウムスナイと心を通わせ、記憶を取り戻したのだとしても、彼女との間には梢と風という媒介物があったのだ。人間どうしだけではなく、心理には還元できない人間と周囲の世界との対話をカメラが収めているのが清々しい一作だった。