« previous | メイン | next »

October 30, 2022

《第35回東京国際映画祭》『ザ・ウォーター』エレナ・ロペス・リエラ
板井仁

[ cinema ]

2BB53413-BCE1-4CCA-9520-C201FE2AB824_0.jpg レイヴパーティーは一夜にして人の波をかたちづくる。その黒いうねりのなかで踊る若者たちは、夜明けとともに瓦礫然とした大量のゴミを残して去ってゆく。まだその余韻を保ちつづける何人かの若者たちは、引き寄せられるように川へと向かい、もはやすっかり朝になった土手に腰を下ろし、この退屈な村から抜け出したいという漠然とした将来像を語りあう。しかしそうした未来の話は、そのうちの一人が川に浮かんだヤギの死体を見つけることで中断され、話題はこの不吉な川へと移行する。カメラはここで、下流へとゆるやかに進んでいく川面のショットを映しだすのだが、それはヤギの死体からの視点であるばかりか、土地に縛られたものたち自身の視点とも重なりあってあらわれる。身体はもはや身動きが取れず、ただ流れに身を委ね、流されてゆくことしかできないのだ、と。

 映画は、祖母と母と暮らすアナと、父と暮らすホセとの恋愛を描く。二人は惹かれあっており、この村を離れる未来を語り合いもするが、その関係はホセの父や仲間たちに歓迎されることはない。男たちのコミュニティの噂によれば、アナの家系は水に呪われているのだという。途中、実際にこの土地に住む女性たちへのインタビューが何度も挿入され、洪水のたびに女が水の中へと消えてしまうという神話や、彼女たちが過去に体験した洪水の証言が語られる。それは、自然あるいは死という超越的なものが女性と結びつけられるさいに課せられる、人身供犠的な民間信仰であるだろう。女性は神聖さと関連づけられることによってミソジニーの対象となる。アナの家族が男たちに忌避されているのは、ミルクを飲まない子どもに悩む母親に、水を用いたまじないを執りおこなうからである。
 生活圏が分けられている彼女ら彼らの生活は、家の外で働く男たちと、家庭の内で働く女たちとの対照性によって示される。女たちの労働はバーカウンターや工場の中など、自分の持ち場にとどまったままであるのに対し、男たちの労働は畑の中を移動して行われる。映画に何度もあらわれる鳩――それは「創世記」におけるノアの方舟を想起させもする――は、鳩レースに興じる男たちの姿にも重ねられる。ホセが父とレース鳩の翼に色を塗るシーンが印象深いのは、この鳩がホセのTシャツと同じ色模様にペイントされたあと、ケージへと戻されることなく、ホセによって窓の外へと放たれるからである。

 アナは太ももにサソリのタトゥーを入れているのだが、彼女はその理由をサソリとカエルの寓話によって説明する。寓話においてサソリは、川を渡るためにカエルに背負ってもらいながらも、川の中腹でカエルを刺し殺してしまうのだという。アナは、カエルの手を借りて川を横断しようともくろむサソリに自分を重ねるのだが、川沿いの土手で、ホセがアナに二人の未来について問いかけるとき、カエルの鳴き声が響き渡っていることは示唆的であるだろう。
 終盤、二度目のレイヴパーティーの途中、雷雨が激しさを増していくと、パーティーを抜け出したアナは川へと向かう。ここで、実際のニュース映像が村の洪水の様子を映しだすとき、水の意志などまったく存在しないということが理解される。水が奪い去っていくのは女だけではない。洪水は、あらゆるものを飲み込んでいくのである。もし水が女ばかりを飲み込むのだとしたら、そのとき弱い立場にあるのが女であるという事実が露呈されるだけだ。とするならば、その土地を流れる差別的な規範こそが、女を奪い去るだけなのだ。
 過去に起こった洪水の歴史を呟きながら、アナは氾濫する水の中へと進んでいく。やがて洪水は過ぎさって、まぶしい朝の陽射しを受けながら歩きつづけるアナのショットで映画は終わる。水と結びつけられ、つなぎ止められていた女たちの歴史は、アナによって開かれてゆく。

【関連記事】
  • 《第35回東京国際映画祭》『ザ・ウォーター』エレナ・ロペス・リエラ|秦宗平
  • エレナ・ロペス・リエラ監督インタビュー