《第35回東京国際映画祭》『フェアリーテイル』アレクサンドル・ソクーロフ
作花素至
[ cinema ]
ソクーロフの映画には「超時間性」とでも呼べる特質がしばしば備わっている。たとえば、『エルミタージュ幻想』(2002)は全編ワンカット撮影という現実の時間の極端な制約の中にありながら、数百年に及ぶ想像の時間がそこに重ね合わされていた。また、私の大好きな『精神(こころ)の声』(1995)でも、やはりドキュメンタリーの形で歴史の局限的な場面としての戦場を記録しているにもかかわらず、生命の気配のない岩山の上で無為にたむろする兵士たちを遠くからとらえたショット群には、神話の時代の光景のような悠久さを感じて胸を打たれる(おそらくそれは、彼らがほとんど遺棄に等しい形で国家によって遠方の戦地に派遣され、既に半ば死者と化していたからなのだと思う)。そしてこの『フェアリーテイル』は、78分という長編映画としてはミニマムに近い上映時間の中で、時間の停止した異世界を映し出し続けるのだ。
作中、第二次世界大戦当時のヨーロッパの列強の政治指導者たちが彷徨うのは黄泉の国のような空間である(そのうちの誰かが此処こそ天国だと言っていたような気もするが、真相はわからない)。基本的にモノクロームで霧がかったその空間はゴヤやピラネージのエッチングの系譜にある幻想版画を想起させるもので、素晴らしい。そして扉の向こうの神(?)のもとに行くことを許されない指導者たちは愚痴をこぼし、目の敵であるお互いを腐し、さらに増殖を続ける自分の分身と無意味な会話を繰り返しながら、始まりも終わりもない徘徊を続ける。実際、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、そしてチャーチルの姿は記録映像を素材にしたディープフェイク技術で作られているから、彼らの薄っぺらなイメージは永遠に弄ばれ得るわけだ。死なない「役者」と壊れない世界によって、『フェアリーテイル』という映画もまた原理的には際限なく続けられるだろう。
不可解な事象に満ちた本作は様々な疑問をかき立て、憶測を巡らしたくなるけれど、そのいずれをも飄々とかわしてしまうところがある。権力を失って裸同然となった腑抜けの独裁者たちは果たして断罪されているのだろうか。確かに彼らは行く先々で自らの犠牲者と思しき遺体の山の影に付きまとわれたりしているが、それにしては恐れも反省の色もなく、意外と能天気に暮らしている。実のところ、ヒトラーがエヴァ・ブラウンではなくワーグナーの姪と結婚したかったと愚痴るのをチャーチルが聞いてやっている図などは悪い冗談そのものだ。そして神らしい存在も彼らを積極的に拒絶しているというより、まるで審判の厄介な仕事を先送りしたがっているかのような口ぶりである。この映画は明らかに歴史評価や政治的な公正さを正面から問題にしてはおらず、だからヨーロッパ以外の地域の大戦の当事者たる日本とアメリカの権力者の不在などを問うこともたぶんあまり意味がない。イメージの気の利いたカリカチュアとしては、あの世界には4人の他にイエスとナポレオンらしい住人がいるが、私たちは彼らの映像も録音された声も知らないという点でディープフェイクの人形とは異質な存在であること、さらにはそうした技術を利用した映画が今作られたことの意義などにもっと注目すべきなのかもしれない。