ジャン=リュック・ゴダール追悼 ケント・ジョーンズ
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9月13日に逝去したジャン=リュック・ゴダール監督に哀悼の意を捧げ、ある批評家の文章を掲載する。その名はケント・ジョーンズ。批評家としてキャリアをスタートさせ、ニューヨークのリンカーン・センターやフィルム・フォーラムで映画プログラマーとして活躍。90年代にはマーティン・スコセッシのアシスタントを務め、2012年にはアルノー・デプレシャン『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』の脚本家を務めるなど、その活動は多岐に渡る。そして近年、ついに自ら映画監督となり、『ヒッチコック/トリュフォー』(2015)、『Diane』(2018)を発表。彼もまた、あらゆる側面から「映画」を考察してきたゴダールのように、映画との関わりを人生に捧げ、常にその方法論を変化させながら継続してきた人物である。そんな生粋の映画人であるケント・ジョーンズにとって、ゴダールは一体どのような存在だったのだろうか。ゴダールの歴史を振り返りながらも、極めて個人的な思い出を綴った美しい追悼文をご紹介する。翻訳を快く許可してくださったジョーンズ氏に感謝の意を表したい。(松田春樹)
絶えず変化し、映画とは何か、観客や作家論に果敢に挑みながら、ジャン=リュック・ゴダールは人生と同じように体験することでしか理解できない、比類ない作品群を生み出した
ケント・ジョーンズ
女王とジャン=リュック・ゴダール。
ここ数日、エリザベス女王は絶え間なく変化する世界の定点として注目を集めた。実際に彼女はそうだった。
そしてゴダールは、囚われた世界の中で絶えず変化する存在だった。つまり、映画がどのように作られ構成されるべきか、世界のパワーバランスはどうか、日常の存在とそれをどう定義するか、私たちの内面について、自由について、存在について、言語について、生者と死者についての揺るぎない思考の世界である。
私や多くの友人たちにとって、また幾人かの詩人や音楽家、哲学者、シネフィル、そしてもちろん映画作家にとっても、ゴダールは光り輝く星だった。だから、ある朝、妻が静かに彼の訃報を知らせてくれたとき、私の心は突然、新しいリズムを刻み始めた。
ビリー・ワイルダーはウィリアム・ワイラーに「もうルビッチはいない」と言った。「最悪なことは、ルビッチの映画がもう撮られないことだ」とワイラーは言い返した。そして今、ゴダールの映画が撮れられることも、もうない。しかし、彼が残した大小さまざまな作品は、1990年の『ヌーヴェルヴァーグ』で、伸ばした手に降り注ぐ陽光のように、今、鮮やかに、大きく輝いている。特に今、私たちは凝り固まったメディア承認による「位置」と、表面や「光学」に対する行き詰まった執着に取り囲まれているからだ。
あらゆるものが説明され、分類され、準備されることを期待するようになった若い人たちに、ゴダールをどう「説明」すればいいだろうか。ゴダールは、ベートーヴェンの後期のカルテットやジョージア・オキーフのキャンバスと同じように説明できるものではない。彼の映画は、すぐに理解できずとも、無頓着に飛び込んでいかなければならない。『勝手に逃げろ/人生』(1980)でナタリー・バイが野外を自転車で走るストップモーションの映像も、『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967)における「個人空間」の重なりも、カップの中でうごめくコーヒーと、ゴダールがささやく自身の存在についての反芻でクライマックスを迎えることも、説明できない。いやこれらの映画はたしかに、位置付け、比較し、分析することができるが......しかし、説明? 何よりもまず、体験しなければならない。
ゴダール自身について説明し、彼を自分のものにし、追い詰めたいという衝動が常にある。もし私がゴダールのことを何も知らなかったら、BBCのヴィンセント・ダウドから次のことだけを学んだだろう。ゴダールは映画界に入るのに苦労したが、『勝手にしやがれ』(1960)でついにシーンに登場した。60年代の作品は新鮮で色気があり、彼はロマンチックで新しいポップ美学を創造した。これらの作品はクエンティン・タランティーノに大きな影響を与え、ディック・キャベット・ショーに一度だけ出演した......など。もし、私がガーディアンを見ていたら、ピーター・ブラッドショーから「70年代が進むにつれて、ゴダールは政治的・知的威信を失い始め、80年代に彼の作品のインパクトは弱まった」と学んだだろう。しかし、少なくとも私の頭の中では『パッション』(1982)、『カルメンという名の女』(1983)、『ヌーヴェルヴァーグ』、『ゴダールの映画史』(1988-1998)、『オールド・プレイス』(2000)、『アワーミュージック』(2004)、『さらば、愛の言葉よ』(2014)、『イメージの本』(2018)と、彼のアーティストとしての最も豊かな時代の作品をいくつか挙げることができる。1993年の『たたえられよ、サラエヴォ』という2分間のフィルムは、再見するたびに言葉を失うほど素晴らしい作品である。
少なくともブラッドショーは、ゴダールがかつて批評家であったという事実に触れてはいる。もしあなたが映画に少しでも興味があるのなら、ゴダールの評論集を読まなければならない。彼の文章がロメールやリヴェットやトリュフォーよりも鋭いとはまったく思わないが、映画の実生活とその可能性に深く、恍惚として関わっているからだ。ゴダールはかつてこう言った。「50年代、映画はパンと同じくらい重要なものだった。私たちは、映画が知識の道具として顕微鏡や望遠鏡と同じように自己主張すると考えていた......」ニコラス・レイ、ボリス・バルネット、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・ルノワール、ヒッチコック、ブレッソンについての著作で、ゴダールは、果てしない数の映画作家を育て、精神的支柱とするのに十分な壮大さと高揚感を持った映画という観念を作り上げた。
ゴダールの地上での人生についての伝記的な詳細は、興味を持つ人なら誰でもすぐに知ることができるが、それは私たちの作品体験を照らし出すにはほとんど何の役にも立たない。ボブ・ディランのように、ゴダールは芸術を通して全てを語り、何が「個人的」であり「個人的」でないかという問題をはるかに超えて、時間やアイデンティティから解放された芸術的な演説形式へと押し進めたのだ。ボブ・ディランがホイットマンの言葉を引用したように、ゴダールは多面性を持っている。そして、ディランの音楽の音波のように、ゴダールの映画は、生者も、死者も、すべての芸術家と会話しているのである。
キャリアは適切に異なる時期に分けられる。50年代半ば、すでにカイエの作家たちが最初の短編を作っていた頃に始まり、1967年の『ウィークエンド』で終わる見事なヌーヴェルヴァーグの時期がある。マオイスト/ジガ・ヴェルトフ集団の時代があり、その大半はジャン=ピエール・ゴランとの共同制作で、ゴダールの68年5月の『シネトラクト』に始まり、72年の『万事快調』で終わり、彼の致命的なバイク事故の直後にも撮影されている。70年代初頭、アンヌ=マリー・ミエヴィルとの実りある生涯のパートナーシップが始まる実験的な時期がある。ゴダールの作品におけるこの豊かな鉱脈は、しばしば彼のキャリアに関する公式発表では完全に脇役となっているが、一連の驚くべき作品、大作(『6×2』(1976),『二人の子どもフランス漫遊記』(1977), 『ゴダールの映画史』)、中編(『ソフト&ハード』(1985), 『言葉の力』(1988),『自由と祖国』(2002))、小編(『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981),『二十一世紀の起源』(2000),『あるカタストロフ』(2008)、そして1980年の『勝手に逃げろ/人生』から2018年の『イメージの本』までの15作品と同時進行で制作された、驚くべき作品の流れへとつながっている。
異なる時代をどのように特徴づけるかは、番組と登壇者の間で違った。ヴィンセント・ダウドにとっては、『勝手にしやがれ』やアンナ・カリーナの映画などがそれにあたる。クエンティン・タランティーノにとって、それは多かれ少なかれ同じである。最初に「楽しい」映画がやってきて、それからゴダールは、かつてタランティーノが言ったように「自分のケツの穴に消えていった」。60年代にゴダールの映画作家としての出現を経験した多くの人々にとって、ゴダールは、目もくらむような爽快な高みへと急速に上昇し、その後、ますます無関係になっていくというプレストン・スタージェスの映画のような物語であった。60年代が終わると、ゴダールの社会的有用性が失効したかのように、もう十分だと判断する人もいた。ゴダールの全盛期と言われる時期に支持したヴィンセント・キャンビーは、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載した『ヌーヴェルバーグ』評の最後の言葉で、見苦しい態度を示している。「パーティーは終わった。」 シネフィル界の一部にとって、ゴダールは現代の神託であり、そのすべての宣告は、他の誰も語る勇気のない、ある種の詩的/哲学/政治的/実存的真実として受け取られていた。
ゴダールが映画監督になったのは、現代の若者がiPhoneを手にするように、多くの若者が音楽や映画を受け入れていた時期だった。60年代、ショービジネス、芸術的な華やかさ、そして押し寄せる若者文化が出会う場所、その中心にいることは、極度に頭が混乱し、時には恐怖を感じることもあったに違いない。ディランと同様、ゴダールも旗手として任命され、二人は謎めいた、メシアンに近い人物像の地位にいた。彼らは異なる脱出経路を選択した。ディランはザ・バンドとともにアメリカの過去に深く分け入っていった。ゴダールはラディカリズムに身を投じた。彼は後にマオイスト時代を否定するが、その映画には「良い運動」があったことを認めている。自らの実践との激しい決別は、映画制作と配給の標準的なアプローチからも、映画そのものへの若き日の抱擁からも自分を切り離す方法として、自己定義に向けた大きな一歩となった。ミエヴィルとのパートナーシップ、1978年のスイスへの移住、カメラのパイオニアであり、エートンの創設者であるジャン=ピエール・ボーヴィアラとの極めて論争的でダイナミックな関係。彼は、ゴダールが夢見ていた35mmカメラ、つまりポケットに入れておいて、撮りたいものがあればいつでも持ち出せるようなカメラを、彼のために懸命に作り上げた。また、『パッション』から始まったサウンドミキサーのフランソワ・ミュジとの関係や、ビデオの採用は、ゴダールの映画制作へのアプローチをさまざまなレベルで根本的に変えることになった。
ゴダールの癇癪持ち、気まぐれな逆転劇、キャストやスタッフとの険悪な関係については枚挙にいとまがなく、また、多くの仲間の映画作家に対する辛辣なコメントもある。後者は、彼のスポーツマンとしての競争心によるものだが(旧友トリュフォーとの公然かつ痛烈な喧嘩は、間違いなくこのせいだ)、前者は純粋に独立した芸術家になるための苦渋のステップの連続だと、私は今思う。ゴダールはそのキャリアの初期から、映画制作の一般的な慣行、つまりヒエラルキーや、時間、予算編成、会計処理に異議を唱えていた。すべての関係者が納得し、芸術的創造につながるような別の方法で仕事をすることはできないのか?ゴダールにとって、すべての道はビデオと編集室に通じていた。そこでは、制作とポストプロダクションの手段をコントロールすることができ、実際、それらをひとつの進行中のプロセスに統合することができた。フランシス・フォード・コッポラはかつて、映画制作の道具はいつの日かキャンバスや筆や絵の具のように安価で簡単に手に入るようになるだろうと予言したことがある。しかし、ゴダールがすでにそのような道具を使いこなすに至っていたことを、彼は知っていただろうか。70年代半ばのハイブリッド映画『パート2』(1975)と『うまくいってる?』(1975)から、2つの大作テレビシリーズ、延々と続く短編作品とスケッチブック、『ゴダールの映画史』を頂点とし、そしてそれ以降、ゴダールはヨーヨー・マがチェロに、スヴャトスラフ・リヒテルがピアノに触れるように、自分の道具と身体的に親しむようになっていたのである。そして基本に立ち返ることで、彼は批評家としての初期に明確にした、「モンタージュは映画を構築する岩盤である」という確固たる原則に自分の作品を基づかせたのである。
イメージのモンタージュだけでなく、音のモンタージュ、音とイメージのモンタージュ、イメージの重なり合い、その結果、ゴダールが些細な効果を得るために使った独自のテクニックや戦略は、驚くほど多岐にわたった。イメージを重ねることは、色や光の価値を操作することにつながり、両者をまったく新しい絵画的な領域へと押し上げることになった。視覚と音の並置の流れ(音は交互にイメージを深めたり、広げたり、平らにしたり、伸ばしたりする)は、徐々にその特徴を見つけ、『愛の世紀』(2001)の後半で息を呑むほど鮮やかな色に変わるところは最も華々しい。『ヌーヴェルヴァーグ』以降の長編作品の多くを賞賛する一方で、私は、ゴダールの本場は今やビデオであり、そこでは、イメージが誰のものかという作家性の問題ではなく、完全に彼自身のリズムで仕事をすることができる、という感覚にとらわれている。長編映画とビデオ/HD作品が完全に一致したように見えたのは、『さらば、愛の言葉よ』と『イメージの本』を制作したこの10年間だけである。
ゴダールが作品の中で何を「言っている」のかという問題は、長い間、観客や批評家にとって問題であった。独自に活動するすべての芸術家がそうであるように、彼もまた滔々としたレトリックで攻撃され、擁護された。実際、彼は芸術家/哲学者/科学者/研究者/歴史家/民族誌学者などという考えを演じ、ある傾向から次の傾向にスライドして、押さえつけられるのを避けた。しかし、結局のところ、どの道も映画へと帰っていくのではなかったか?ウォレス・スティーヴンズが言ったように、「哲学者の探求は意図的である。一方、詩人の探求は偶然の産物である」。彼はまた、『青いギターを持つ男』の中でこう書いている。「詩の形式は詩の主題であり、/詩はここから出発し、/ここに帰ってくる」。 映画や他のすべての芸術も同様で、その原点と最終目的地は常に自分自身である。だからといって、すべての芸術が形式主義に陥っているわけではない。私たちが「テーマ」と呼ぶものは、世界の綿密な観察に基づき、それを世界に伝えるためのものであり、従うべき計画とは異なり、木が成長するための種である。例えば、『ゴダールの映画史』。ストレートな歴史としては、控えめに言っても疑問が残る......だから「(S)」なのだ。20世紀におけるフィクションとドキュメンタリーの相互作用についての瞑想として、西洋の映像形式の大きな弧の中に位置づけられるこの作品は、ある種の奇跡である。自画像としては、感動的であり、最後の瞬間には深い感動がある。しかし、この作品は歴史的な論説でもなければ、哲学的なエッセイでもない。価値観が明文化されているのではなく、具現化されている作品であり、明瞭さではなく、ミステリーで終わっている。つまり、体験なのだ。
私にとってゴダールは、15歳のときに彼の評論に出会って以来、人生の中心的存在となっている(映画はニューヨーク以外の場所では、なかなか見ることができなかった)。1978年、17歳のとき、私は初めて故郷を離れた。モントリオールへ行き、マギル大学で勉強した。ロン・バーネットの映画の授業を受けたとき、ジャン=リュック・ゴダールがモントリオール映画祭の創設者であるセルジュ・ロジックと、すぐ近くのコンコルディア大学で第2回の討論と上映を行うためにモントリオールに来ていると教えてくれた。私はゴダールが健在であるばかりでなく(事故で永久に死の淵にあるという噂もあった)、彼がモントリオールにいて、誰でも土曜日のイベント(後に「ヒストワール」となるものの萌芽)に参加できることに驚いた。その形式は、午前中に他の人の映画のリールを選び、午後はゴダールの映画を上映し、その後、ディスカッションをするというものだった。『ウィークエンド』の上映の前に『ドラキュラ』(1931)のリールがあり、『ワン・プラス・ワン』(1968)の前に『ニューヨーク、ニューヨーク』(1977)のリールがあったことを覚えている。
翌土曜日の朝、私は思い切ってコンコルディアに出向いた。歩きながら、通りの向こう側に目をやると、黒っぽいオーバーコートを着て、黒っぽい眼鏡をかけ、葉巻をくわえた男がいるのが見えた。私は敬意をもって距離を置いた。私たちは同時に劇場の外のホールに到着し、ドアには鍵がかかっていた。席に着くと、彼は私に話しかけ始めた。最初はフランス語で、次に英語だった。あなたの名前は?出身は?年齢は?私はこの時の彼を忘れることができない。それは、触れることができるほど儚げであり、同時に完全に人間であるとしか言いようのないものだった。
彼の映画を見たとき、私の映画に対する意識、そして映画に対する自分自身の意識に光が灯った。すぐに理解できないものには目をつぶる現代の人々に、私は心を痛めている。20歳のとき、私は『勝手に逃げろ/人生』を「理解」していただろうか?もちろん、わからない。しかし、ゴダールの美しい言葉を借りれば、その「運動」は私を興奮させ、親しみを通して理解するように導いてくれた。自転車に乗ったナタリー・バイの動きが突然止まり、停止と発進に分かれる......娼婦として商売をしながら、自分の内面を見つめるイザベル・ユペールの完璧な構図と穏やかな顔......映画の冒頭、真っ青な空に浮かぶ雲の向こう側へと広がる狂気のパン移動......美しく決まった光の中でカフェに一人座るナタリー・バイ、思考と存在の行動......私はこの映画の全てをまとめる前に一瞬一瞬思い出していたと言っておこう。
90年代初頭、リンカーン・センターとMoMAで、それぞれアントニオーニと最近のゴダールの回顧展が同時に開催された。私はゴダール一色だった。マリテ・フランソワ・ジルボーのコマーシャルをはじめ、ビデオ作品に初めて触れたのだが、そのほとんどが「ラ・モード...ラ・モード...」という言葉を何人もの声で繰り返し話すという構成になっていた。4本目のCMで、後ろのほうにいた老人が大声で話し始めたときのことは忘れられない。「ラ・マッド(La mud)、ラ・マッド、ラ・マッド......お前たちは一体何なんだ?」
あるとき、ほんの一瞬、私はゴダールに反論しようとした。私を非難する人たちとは逆に、それは破壊衝動からではなく、長い時間をかけて作品と深く関わってきたことからこそだ。私は、一部の無自覚なファンが彼を不当に扱っていると感じていたが、それは口実に過ぎない。誰だっていつかは師匠を殺さないといけないし、少なくとも否定しないといけない。そして、自分に正直に言えば、私は後世のためにゴダールを評価することにした。「散文は有用であり、物を動かし、命令を下し、論理的であり、議論に役立ち、対立を解決し、戦争を行い、特別な利害に通じ、金を稼ぎ、情報を伝え、その他諸々である」と、イエズス会司祭で活動家のダニエル・ベリガンは書いている。「一方、詩は、神が不要であるという意味において不要である。神が無用であるという意味で、詩は無用である」とも。私は散文という言葉で詩人を表現する罪を犯した。
ゴダールは孤独の映画詩人であったと思う。彼の孤独、そしてすべての人の孤独。日常生活における実存的な孤独、絶対的な自己定義のゼロ地点、それは思考によって呼び起こすことはできず、ただ偶然に、そして戦慄とともに到達する。ゴダールだけが、これを映画という形で私たちに伝えてくれたのだ。
2011年、ジャーナリストのフィアクラ・ギボンズに「映画は終わった」と言ったゴダール。「誰もそれを探求していないのは悲しいことだ。でも、どうしたらいいのだろう? 」11年後、ゴダールはこの世を去り、自らの意思で旅立ち、彼が反ユダヤ主義者であったかどうかについての「考察」がなされ、彼の映画の上映前に事前警告を掲示することが議論されている。そして、2011年には空想的に悲観的に見えたことが、今では効力を得ているように思える。私たちが今生きているような無愛想で強欲な時代は、映画界に豊かで驚くべきものを生み出す肥沃な土壌を提供し、過去との新鮮なつながりが未来の新しいアイデアにつながる。その未来がどうなるかは、50年代にゴダールが発明した輝かしい映画の理念を経験した私たちにはわからない。
この瞬間から、1960年生まれの人間として、私はこう言える。昔、私はどういうわけかある映画監督に出会った。彼の作品は私を魅了し、私のビジョンに新たな次元を加え、映画芸術に対する勇気と誇りを与えてくれた。同じく映画監督である友人の言葉を借りれば、彼は私たちを守ってくれたのだ。彼の名は、ジャン=リュック・ゴダール、そして今もそうだ。
(サイト&サウンド 2022年11月号所収)
訳:松田春樹