《第4回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》「異邦人であること」ジャン=マルク・ラランヌによるデルフィーヌ・セリッグについての講演 前編
[ cinema ]
今回で4度目を迎えた「映画批評月間」の開催に際して、10月、フランスのカルチャー雑誌『レ・ザンロキュプティーブル』の編集長ジャン=マルク・ラランヌ氏が来日し、デルフィーヌ・セリッグについてのレクチャーが行われた。今年はすでにシャンタル・アケルマンの特集上映でスクリーン越しにセリッグの姿を見る機会に恵まれたが、今回の特集にも多くの人が集まったのを目の当たりにし、改めて、この女優が生きた時代から時を経たいま、彼女の存在がより一層の強度をもって人々に訴えかける何かを得ているように感じた。
レクチャーでは、セリッグの生い立ちに遡るところから、彼女のキャリア全体を振り返って、スクリーンの上でも実生活でも、ある種特異な存在であり続けた彼女の歩みがさまざまな映像を織り交ぜながら丁寧に語られた。ここでは、当日の講演には収まりきらなかった部分も含めて、ラランヌ氏によるテキストの全文を掲載する。翻訳許可してくださったラランヌ氏に感謝の意を表したい。なおこれまでセイリグという表記だったが、よりフランス語の発音に近いセリッグとした。(池田百花)
イントロダクション
デルフィーヌ・セリッグはふたつのことを体現しました。一方には、前衛、大胆さ、発明のほうへと向かう芸術的な道程があります。もう一方には、フェミニズムに賛同する知的で戦闘的な道のりがあり、フェミニズムによって、彼女は男性優位に対して意義を唱えるフランスで最初の代弁者のうちのひとりになりました。長い間、どちらかと言うと前者の側面が評価されていました。つまり彼女は、現代映画と名づけられた、歴史的で美的で特殊な一時代の要となる女優として語られていたのです。アラン・レネ、マルグリット・デュラス、ルイス・ブニュエル、シャンタル・アケルマンとともにこの女優は、60年代と70年代の映画によってさらに革新的なものが提示されうるということを体現したのです。しかし数年前から起こっているMe too運動と公的な場での強いフェミニズム思想の復活から、後者の側面(フェミニズム運動のパイオニアとしての非常に重要な役割)も評価されはじめました。その死から30年以上経って、女性たちの解放のための闘いにデルフィーヌ・セリッグがもたらした力が再発見されているのです。
デルフィーヌ・セリッグの道程のこれらふたつの側面が、どのようにして最もよく交わり合うのかを見ていきたいと思います。抑圧された当時の女性たちの表象において、この女優が参加した断固たる革命は、どのように決定的な一歩となったのでしょうか?
彼女はどこから来たのか?
デルフィーヌ・セリッグのキャリアを振り返るとき、彼女の家族の社会的なルーツと伝記的な経歴は極めて重要です。彼女の一族はスイスの出身であり、彼女の母親は貴族階級の出身で父親はスイスの外交官でした。つまり彼女は上流階級の出身だったわけです。また、デルフィーヌ・セリッグはフランスではなくレバノンのベイルートで生まれました。彼女の父親であるヘンリー・セリッグは30年代の初めにベイルートで赴任して文化担当官になりました。したがってこの若い娘が成長するこの東方の町では、彼女たちの家族は外国人ということになります。しかし10歳の時に父親がニューヨークに赴任すると、家族全員がアメリカに居を構え、この国で彼女は10歳から14歳までの4年を過ごすことになります。そこで完璧に英語を習得したことで、彼女はのちにイギリスあるいはアメリカ映画にたびたび出演することができるようになります。彼女の父親は、アンドレ・ブルトン、ジョアン・ミロ、フェルナン・レジェなど、第二次世界大戦中にアメリカへ亡命した多くのヨーロッパの芸術家たちと友情で結ばれていました。少女だった彼女は、アンドレ・ブルトンとの間に特権的でとても共犯的な関係を保ち、彼からシュールレアリズムの手ほどきを受けました。彼女は子供の頃からすでに知的エリートたちと接していたため、芸術的な要請、美的で革新的な運動、自分のあらゆる型の思考に対する、確固とした趣向を発展させることになります。
14歳の時に父親の任務が変わって、彼女は自分の生まれ育ったレバノンに戻り、そこで再び故郷の社会と接することになります。その時彼女は、アメリカで学んだことの中でも特に女性の自由という視点から、アメリカの社会とはかなり異なった中近東の社会を見ることになるのです。
しかしこうした人生の道のりの中で私にとって重要なのは、デルフィーヌ・セリッグが生まれた時からすでにいかなる土地にも結び付けられることがなかったということです。マルグリット・デュラスは彼女について、彼女があたかも外国語であるかのようにフランス語を話すので、彼女の話し方は魔法のように魅惑的だと述べています。そして実際に、いくつもの国、文化、言語の間に身を置いていたデルフィーヌ・セリッグは、生涯を通じて「外国人」でした。そしてこのような多文化が共存していることは、彼女のキャリア全体を指し示した規範、伝統との距離感と大いに関係があります。生涯彼女が十分な距離を取っていたのは、すべてを一望の下に置くためであり、特定の場所や瞬間の価値に決して与しないためであり、それらの価値から離れて、それらを別の文化や別の国の視点から探るためです。このような探索すべき、再検討すべき能力は、おそらく子供の頃に遡るこのノマディズム(放浪生活)に起因しています。
高校時代、彼女は俳優になることを決意します。そして両親は18歳でパリに居を構えて演劇コースを受けることを認めましたが、ほとんど30歳になるまでの10年近くの間、彼女は仕事を見つけるのに大いに苦労しました。彼女はあまりに風変わりであまりに奇妙だと受け取られてしまうのです。興味深いのは、彼女が実生活では、映画で築き上げることになるとても偉大なブルジョアのイメージとは正反対のファッションスタイルをしていたことです。
彼女は、どこかしらバルバラやジュリエット・グレコを思わせる、50年代フランスの実存主義の若者のような少し男の子っぽいスタイルをしていて、髪を整えず、化粧をせず、いつも黒い服を着ていました。彼女はフランスで仕事を見つけることができなかったので、数年前に結婚した若い画家とともにニューヨークについて行くことを決意します。50年代末には、ビートニク文学は頂点を画していました。グリニッジ・ヴィレッジに居を構えて、デルフィーヌ・セリッグはこの環境に入り込んでいくことになります。1959年には、最初の映画に出演していて、写真家のロバート・フランクがジャック・ケルアックの原作をもとに撮ったこの中編映画『Pull my daisy』では、アレン・ギンズバーグが俳優として参加しています。映画は完全に即興であり、極めて支離滅裂な様式に従ってカメラはあらゆる方向に動きます。前衛のニューヨーカーたちの純粋な精神にのっとっていて、少しジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』(1956)と似た雰囲気のある映画です。これからその抜粋をご覧いただきたいと思います。おわかりになるかと思いますが、この映画はサイレントで撮影されていて、それからジャック・ケルアックがすべての登場人物の声を吹き替えました。全員の代わりに話しているただひとつの声が聞こえるのです。したがってデルフィーヌ・セリッグが初めて映画で演じている時、興味深いことに、彼女はジャック・ケルアックの声をしています。この映画で描かれているのは、ニューヨークに住む芸術家たちからなる小さなグループのボヘミアン的な生活であり、彼らはグループのうちのひとりの家でパーティーをすることになります。しかし彼らが飲んで騒ぐと、招き入れてくれた男性の妻からののしられます。そのために、彼らは夜中にこのたまり場を立ち去ってパーティーをしに出かけるのです。
抜粋1 : 『Pull my daisy』(59)
この映画の中で私が興味を持つのはふたつの点です。まずデルフィーヌ・セリッグの外見です。彼女のあり方は古典的な意味ではまったく女性的ではなく、ほとんど飾り気がありません。のちに彼女のイメージとなる優雅さと洗練さとは真逆のような存在として映っています。デルフィーヌ・セリッグが上流階級の出身であると知っている私たちは、映画の中に見られる彼女が生まれた当時そのままの社会性を演じていると思い込みがちですが、実はそうではありません。一度自分が背負っている上流階級をすべて捨てて素の人間のような姿になった後で、極めて意図的に、なおかつある種の距離感を持って冷静に組み立てられて創造された人物こそが、ブルジョアの上流階級的なイメージとしての女優デルフィーヌ・セリッグなのです。次に興味深いのは、この映画に見られる女性差別です。デルフィーヌ・セリッグはデビュー作で悪役の女性を演じることを引き受けてしまったのです。それは夫を去勢して封じ込めるような妻の役であり、彼女は社会や秩序や仕事の保守的な価値観を体現し、芸術家であると同時に大きな子供たちのような男性たちの自由を制約しています。こうした専業主婦の役を彼女はのちにシャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディエルマン』(75)で再び演じることになりますが、そこでは専業主婦が疎外されている感覚を告発するためにその役柄を演じています。それに対して、ここでは、彼女はこの映画の女性蔑視を引き受けてしまっていて、どうして女性がこうした立ち位置を占めなければならないのか、まったく問いたださずに甘んじており、それを意に介していません。
デルフィーヌ・セリッグはこの映画を恥じていて、自分が他の映画にはもう出演しないだろうとさえ考えていました。そこで彼女が発見したのは、自分がマチズモ(男性優位主義)に耐えられないというだけではなく、社会の中で最も先端にあり自由であるかに見える男性たちもまた女性たちを抑圧するマチズモの先導者になりうるということです。しかも彼女はこの映画を見て、自分が美しく映っておらず、あまりにもカメラに愛されていないと感じてしまいます。しかし第一作の『ヒロシマ・モナムール』(59)が多くの評判を呼んだフランスの映画作家アラン・レネが、第二作として小説家アラン・ロブ=グリエと書いた『去年マリエンバードで』(61)という新作のために無名の女優を探していました。レネとセリッグの共通の友人である写真家のウィリアム・クラインが彼らを引き合わせるとレネは彼女を抜擢しました。そしてそれと同時に彼は彼女に新たな価値を見出します。これから間もなくこの極めてミステリアスな映画の抜粋をご覧いただきます。そこではある男性が女性にある出来事を思い出させようとしますが、彼女にはその思い出がありません。そしてその出来事は、記憶がさまざまに変化することで、絶えず訂正されていきます。
抜粋2 : 『去年マリエンバードで』
『Pull my daisy』から『去年マリエンバードで』まではたった1年しか離れていません。どれほど彼女の変貌が驚くべきものであるかおわかりでしょう!この女優は、50年代のパリの左岸あるいはグリニッジ・ヴィレッジの少しボヘミアン的な左翼の知識人たちが提唱した女性性の諸々の古典的な原型を拒否することを通じて、極めて洗練された女性性を獲得しています。超越的で、誇張され、あまりにも極端な女性性であるがゆえに、女性性とは何かということに対する見解にもなっています。女性性というものが自然に備わっていたものではなく、あくまで人の手によって造られたものでしかないことを告げているかのようです。
映画で誇張された女性性は独特の神話となっています。映画によって、そして映画のために発明された神話とは、つまりスターの存在です。女性登場人物、超自然的な輝きに包まれたその人物の神秘を作り出すために、アラン・レネとデルフィーヌ・セリッグは1930年代のハリウッド映画のイコノグラフィーと女性スターたちの神々しさを検討することになります。とくに、スター女優の最たるマレーネ・ディートリヒとグレタ・ガルボがその対象となるでしょう。少し誇張された演技の仕方、振り付けされたようなわざとらしさ、発言の厳かさの点で、セリッグは女神として撮られたこうした女優たちの系譜に連なっています。彼女はここでスターであるというよりはスターのイメージあるいは、そのイデアの亡霊のようなものとして現われてくるわけです。キャリアの初めの15年の間に、デルフィーヌ・セリッグは物語の中でスターとして描かれている女性登場人物を沢山演じることになりますが、それらの人物は、映画の古典時代に実在したスターたちにも依拠しています。つまり彼女は『ロバと王女』(70)ではジーン・ハーロウのような髪形をしていて、『赤い唇』(71)ではまさにディートリヒに倣ったベールと長いドレスをまとって化粧をしていて、『夜霧の恋人たち』(68)ではアントワーヌ・ドワネルの歯止めの効かない憧れを掻き立てています。これらの物語のうちでは、彼女の演じる登場人物はスターとして振舞い、スターであるとみなされています。『夜霧の恋人たち』では、そのうえアントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオー)が彼女について「彼女は女性として登場するのではなく降臨apparitionするのだ」と言っています。それはどちらかと言うと聖書的な言葉であり、聖母の出現を表しています。そして実際に、映画によって彼女の降臨の数々は大いに劇的に演出されて、享受されてきました。彼女が現れたり消え去ったりする時、スクリーンにやって来たりそこから離れて行ったりする彼女の仕方に魔法のような特徴を与えるためのちょっとした仕掛けが演出によって発明されています。『去年マリエンバード』の場合も、『夜霧の恋人たち』の場合もそうです。そして本当に典型的な方法でそれが示されているのが、『ロバと王女』です。
引用3 : 『ロバと王女』
『ロバと王女』においてジャック・ドゥミは、彼女が降臨する度に異なる演出方法を発明し、楽しんでいるようです。私たちが見た抜粋の中では、ジャン・コクトーの映画から直接借用したスローモーションが最初と最後にあり、時おりディゾルブも使われています。デルフィーヌ・セリッグは出現する度に映画の特殊効果を引き起こしていて、あたかも彼女が演じる妖精という登場人物の持っている力と映画の持っている力が一体となっているかのようです。彼女は映画の持っている魔法の体現者と言ってもいいでしょう。映画スターであり、特殊効果の化身であり、女神であるデルフィーヌ・セリッグは、キャリアの最初の部分では、映画の純粋なる姿として映し出されていました。
経済的な観点からしていっそう驚くべきなのは、彼女が決してフランス映画界のスターではなかったということです。ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ロミー・シュナイダー、シモーヌ・シニョレ、あるいはアニー・ジラルドのいた映画産業では、彼女は人気も権力も断じて得ることはありませんでした。彼女の名声は控えめなものであり、彼女は特にシネフィルたちから知られていて、大ヒットを狙う企画が彼女の名のもとで立てられることはありませんでした。ここにこそ、デルフィーヌ・セリッグの矛盾があるのです。つまりフランス映画界におけるいかなる女優も彼女ほどスターとして撮られることはなかったにもかかわらず、彼女は映画の中でしか、その想像上の世界でしかスターではなく、フランス映画産業の現実ではまったくスターではありませんでした。スターの古典的な人物像に訴えたことは、おそらく60年代と70年代の最も革新的な現代映画の特性ですが、古典映画のあらゆる原則を非神聖化する映画の中でそうしたことが行われました。同時代のドイツ映画の場合がそうです。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、あるいはヴェルナー・シュレーターは、イングリット・カーフェンやハンナ・シグラなど、神格化されていると同時に汚されているような極めてグラマラスな女性像を作り出します。同時代のアンディ・ウォーホルの場合もそうであり、彼は自分のモデルたちをスーパースターズと名づけましたが、彼女たちの出演している映画は世界中で数千人の観客たちによってしか見られていませんでした。スターの神話を古典映画から引き離して、脱構築されて現代的な映画の中に、そのスターを送り込む、そのことでまさに、映画の指示的な幻想を打ち壊すのです。それは誤りや人工的なものの次元を指し示すことです。レネの映画からデュラスの映画に至るまで、ディーヴァを演じる中で、デルフィーヌ・セリッグは距離感を持ち込んでいます。彼女は自分が表現されたものでしかないという意識を二重に表象して見せるのです。 (中編へ続く)
訳:池田百花
《第4回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》にてデルフィーヌ・セリッグ特集開催 12月3日15:10『デルフィーヌとキャロル』上映後に斎藤綾子氏によるトークあり
会場:横浜ジャック&ベティ