《第4回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》「異邦人であること」ジャン=マルク・ラランヌによるデルフィーヌ・セリッグについての講演 中編
[ cinema ]
構築される女性性、あるいは女性としての闘争
フランソワ・トリュフォーの『夜霧の恋人たち』の抜粋に移ります。その中ではジャン=ピエール・レオーが靴屋の若い店員を演じていて、彼はその店主の妻に狂おしいまでに恋をすることになります。そしてある日、彼女は魔法のように出現して、彼の部屋を訪れるのです。
抜粋4 : 『夜霧の恋人たち』
このシーンで、フランソワ・トリュフォーはデルフィーヌ・セリッグに登場人物たちのために考えた大筋だけを伝えました。つまり、セリッグ演じる妻がレオー演じる青年のもとを訪れ、たった一度ベッドを共にする、というシチュエーションを。しかし彼女が演じる登場人物のセリフ自体は、セリッグに託しました。したがって私たちが見たシーンのセリフはすべてデルフィーヌ・セリッグ自身によって考えられ、口にされたものです。とりわけ私にとって興味深いのは、このシーンによって、セリッグが魔法のようで、超自然的出現(apparition)だと称される自分のキャラクターを完全に脱神話化していることです。そこで彼女は、「私は超自然的な出現ではなく、ただの女なのよ。まったく逆なのよ」と言っているように、自ら鼻におしろいを塗って、自分の出現の条件をひとつずつ自分自身で作り上げていることを明かしています。とても若い頃、デルフィーヌ・セリッグはシモーヌ・ド・ボーヴォワールの熱烈な読者であり、彼女の本を読んだことがフェミニスト運動への参加を決定づけていました。セリッグがここで表現していることは完全に、ボーヴォワールの思想と、「私たちは女性として生まれるのではなく女性になるのだ」という彼女の有名なひと言に基づいています。セリッグは女性の社会的なあり方を純粋な構築物として提示しています。女性であるということは当たり前の、自然なことではない。女性とは演じられる役柄であり、見世物なのであって、魔法のようなものではまったくなく、構築されるものである。女性というのはある意味、模像(シミュラークル)である、と。
『夜霧の恋人たち』は1968年の映画です。これはフランスの歴史の中で非常に多くの市民による抗議活動が生まれた年であり、町でデモが行われたりストライキが連発したりしました。セリッグもまたいわゆる五月革命に対して非常に親近感を持っていました。女性とは構築物であるということを自分の出演する映画の中で言うだけではもはや足りず、これ以降、セリッグは実人生でも直接発言するようになっていきます。70年代には、デルフィーヌ・セリッグは活動家になり、テレビにもしばしば出演してフランス社会における男性と女性の間の不平等に対する怒りを表明しました。1972年のテレビ番組の抜粋をご覧ください。
60年代末から、デルフィーヌ・セリッグの人生の中で活動家として態度表明することはますます重要になっていき、彼女は、1970年に設立された女性解放運動(MLF)と非常に密接に活動していきます。フランスでは1974年まで妊娠中絶が合法化されなかったため、それまでセリッグはパリにある自分のアパートで秘密裏に中絶手術を受けられるように取り図っていました。彼女は売春婦たちの権利が認められるように闘います。しばしば、彼女はテレビ番組のスタジオに招かれて、男女間の平等の問題について政治家たちを激しく問い詰めていきます。
彼女はフェミニズムにコミットするためにメディアに頻繁に登場し、まさにこの運動を代弁する顔となっていきます。怒りが彼女の存在を動かす原動力となっていくのです。そして彼女のキャリア自体がこうした政治参加を中心に新たに構築されていき、1972年以降、セリッグはそれまで女性たちが自らの物語に十分に耳を傾けさせることができなかったことを考慮し、女性たちとともに映画を撮ろうと決意します。そして映画によって闘いを続けていくことを可能とする何本かの作品と出会うことになるでしょう。
形式的に前衛なるものを探求すること、女性の権利を求めて政治的に闘うことと、セリッグにとってのふたつの関心ごとを結びつける絶対的な映画作品。それまで誰も撮影しなかった、専業主婦の家庭内の空間を疎外の絶対的な場として見せるラディカルで、偉大な作品が撮られます。『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』です。
抜粋6 : 『ジャンヌ・ディエルマン』(75)
ベルギーの映画作家シャンタル・アケルマンは『ジャンヌ・ディエルマン』を撮った時、まだ25歳で、それは彼女にとってようやく2本目の長編映画でした。そこでデルフィーヌ・セリッグに提案された映画は、彼女にとってはまさに夢見ていたものでした。つまりそれは、いままで彼女がやってきたことと暴力的なまでに断絶していて、映画の形式的にも政治的な内容においても新しい自分を見つけ出せる作品でした。あまりにも若い新人の芸術家によって、これほど並外れ、成熟し、そしてこれほどの完璧さが遂行されたという事実にはなにか常軌を逸するものを感じざるを得ません。『ジャンヌ・ディエルマン』は思考によって生み出された傑作であると同時に完璧に概念化された作品ですが、驚くべき造形力も持っています。彼女が目指していたのは、ただ古典的な映画を捨て去ることによってのみ映画を作り上げるということ、つまり古典的でナラティブな映画では撮影されない、省略される部分の中に飲み込まれてしまうものを撮影するということです。たとえば、台所をきれいにしたり、料理を準備したり、テーブルを片付けたりするために必要な時間におけるすべてのことを映画は撮影するに値しないと判断してきましたが、こうしたことこそが1975年になってようやく、女性の生活の本質的な部分として提示されたのです。シャンタル・アケルマンが撮ろうとしたのは、家庭を維持するために割り当て、指定されてしまっている女性の立場です。そのためにアケルマンは現実にかかるのと同じ時間をかけて、長回しで撮影し、監視カメラの配置に近い、極めて反復的な枠組みを用いています。事物をとらえる実際の時間を記録することによってのみ、こうして指定された女性の立場の具体性、物質性が示され得るのです。
デルフィーヌ・セリッグにとって、ジャンヌ・ディエルマンという役、夕食の準備の合い間に売春をするこの専業主婦の役を演じることは、きわめて重要でした。たとえば先ほどご覧頂いたインタビュー・ビデオの中でセリッグが表明していたことを説明するのにもこの役はまさに理想的です。つまりこの女性は奴隷であり、売春はあらゆる女性たちに関係していることである。もちろん、この映画の力強さはデルフィーヌ・セリッグという女優の過去のキャリア、彼女が体現した極めてグラマラスで、なかば女神のような女性というイメージに大きく依っています。シャンタル・アケルマンがこうしたギャップを考慮してデルフィーヌ・セリッグを選んだのは明らかでしょう。この女性がその場に囚われていることなど、おかしい、不自然である、そのギャップ。そのプレステージ、威厳にかかわらず、デルフィーヌ・セリッグも他の人々と同様に奴隷である。この世のものとは思えないようなイメージを持った女優にあえて主婦の日常の仕事をさせることによって、主婦という立場の女性が家庭に閉じ込められている奴隷であるという状態を強調していくわけです。
デルフィーヌ・セリッグにとってジャンヌ・ディエルマンは、それまで出演してきた作家たちの映画が理想化してきた自分のイメージを破壊する方法でした。彼女は大いなるブルジョワの洗練さ、理想化された女性の魅力を手放して、家庭のロボットのような状態、自動的な身振りを繰り返す残骸、過度の反復で狂っていく機械と化します。
『ジャンヌ・ディエルマン』に出演するのと同時に、デルフィーヌ・セリッグは、もはや他者の物語を介すのではなく、自己を直接的に表現するために、ビデオで養成セミナーを作ることを決心し、そこでフェミニストのドキュメンタリー作家キャロル・ロッソプロスに出会いました。彼女たちは一緒にいくつもの映画を作り始めましたが、それらの小規模で戦闘的な映画では、現実の諸々のイメージが皮肉交じりの批判的な仕方で再解釈されています。彼女たちは集団を形成し、そのグループは「不服従のミューズたち insoumuses」と呼ばれました。それから彼女は自分自身の映画を作ることを決心し、『美しくあれ、そして黙れ』(81)というタイトルのドキュメンタリーを制作しました。そこでは、およそ20人の女優の経験を検討して、女性たちの社会的な表現に重くのしかかるあらゆる命令を分析しています。彼女は異なる国々や異なる世代の女優、ほとんど知られていないスターや女優にインタビューしに行き、彼女たちに同じ質問をします。それは、女性たちに割り当てられた役柄は何か、50歳以上の女優が演じられると考えられている役柄は何か、別の女性と親しみのあるシーンを演じたことがあるかといった質問です。これからお見せする映画の抜粋では、女優であるジェーン・フォンダがこれらの質問のいくつかに答えています。
抜粋7 : 『美しくあれ、そして黙れ』
このシーンで感動的なのは、いかにハリウッドスターである自分が作り変えられていくのかというジェーン・フォンダの発言が、デルフィーヌ・セリッグが『夜霧の恋人たち』で言っていたことと非常に近いことです。どちらの場合にも語られているのは、女性らしさと言われていることがある種のステレオタイプでしかないということです。しかし『美しくあれ、そして黙れ』では、これらのステレオタイプは男性たちが創造したものであり、それがある種、押しつけられたものとして女性たちによって生きられているということが示されています。
約20人の女優によるこれらすべての証言を通じてデルフィーヌ・セリッグが定義づけるのは、映画というものが、男性たちが女性のイメージをコントロールする場であり、極めて女性差別的な場であるということです。それだけにいっそう美しいのは、この女優が自らの姿を消して他の女性たちの言葉に耳を傾けさせていることです。この映画は、女性たちの連帯を行為によって表現した作品となっています。(後編へ続く) 前編へ戻る
訳:池田百花
《第4回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》にてデルフィーヌ・セリッグ特集開催 12月3日15:10『デルフィーヌとキャロル』上映後に斎藤綾子氏によるトークあり
会場:横浜ジャック&ベティ