『はだかのゆめ』甫木元空
中村修七
[ cinema ]
これはジャンルを問わず映画一般に言えることだと思うが、映画に出てくる人物たちは、生々しい存在感を露わにして見る者を圧倒するかと思えば、ふと気がついた時には希薄な存在感を漂わせていて見る者を心もとない気持ちにさせる。だから、映画の登場人物たちには、どこか亡霊的なところがある。「生きているものが死んでいて、死んでいるものが生きているような」と述べる者がいるように、『はだかのゆめ』に登場する人物たちも、どこか亡霊的だ。
舞台となるのは四万十川に近い土地であり、どうやら水難事故で亡くなったらしい青年が、余命わずかな母のもとを訪ねようとして逡巡している。亡くなった息子の魂が帰ってくるのを待つ母は、残り少ない日々を慈しむように暮らしている。彼女の暮らしに彩りを添えているのは、蛙や蝉や燕といった生き物たち、晴天や台風といった自然気象だ。母と同じ家に暮らす祖父は、畑仕事をしたり鰹を捌いて藁焼きにしたりしながら日々を送っている。これら3人のほかに、いつも酒瓶を手にして酔っぱらっている男が生と死の境を越えてフラフラと漂う。
『はだかのゆめ』に寄せたコメントで黒沢清が「これは間違いなく死の映画だ」と記しているが、そもそも映画自体に死と近しい関係があるのかもしれない。作曲家の武満徹は、映画論『夢の引用』(1984年、岩波書店)において、「カメラを通してしかとらえられない現実のなかに、たえず<死>を感じつづけることが、映画的視覚というものなのではなかろうか」と記していた。キャメラで捉えられることで、被写体は死の気配を濃厚に漂わせることとなる。武満は、夢と映画は「可逆的な関係」にあるとして、次のようにも記していた。「私にとって、映画は、夢の引用であり、そして、夢と映画は、相互に可逆的な関係にあり、映画によって夢はまたその領域を拡大しつづける」。武満の記していたことに倣うなら、『はだかのゆめ』は、夢を引用し、夢の領域を拡大させようとする作品だ。
お盆の時期に死者の魂が帰ってくるとされる風習について『はだかのゆめ』ではセリフで言及されているが、甫木元の前作『はるねこ』でも死者たちが帰ってくる祭りが描かれていた。生と死の境にある場所として、『はるねこ』では森が、『はだかのゆめ』では川が舞台となる。『はだかのゆめ』で映し出される火振り漁の炎は、本来は鮎を追い込むためのものだというが、ユラユラと左右に揺れる炎は、まるで死者たちの魂のようだ。また、闇夜を走る姿が2回にわたって映し出される列車、「プオーン」と響く列車の発車音も、此岸と彼岸をつなぐものだろう。
以上のことを踏まえ、『はだかのゆめ』におけるアクションつなぎについて触れておきたい。なぜならこの映画では、ほぼ180度で反転する特異なアクションつなぎが何度もなされているからだ。すべてを列挙するつもりはないが、幾つかについて記しておく。冒頭に近い部分で、物置から鍬を取りだして歩く祖父を背後から捉えていたショットは、畑にたどり着いて鍬を投げる動作の途中から、祖父を正面から捉えるショットに切り替わる。また、屋外に置かれたキャメラによって室内にいる母が机に面した椅子に座ろうとする姿を左側から窓越しに捉えていたショットは、椅子に座る動作の途中で、室内に置かれたキャメラによって彼女を右側から捉えるショットに切り替わる。さらに、山道の脇に置かれたソファにもたれこむ酔漢を正面より右側から捉えていたショットは、立ちあがろうとするものの酔いのため後ろに倒れこむ動作の途中で、彼を正面より左側から捉えるショットに切り替わる。これらのアクションつなぎでは、前のショットと後のショットで、あちら側から見た世界とこちら側から見た世界が反転しているかのようだ。
『はるねこ』においてもアクションつなぎが何度も用いられていたことが思い出される。森へ入り込んで此岸と彼岸の境を越えようとする人物を映し出す度に、森の奥へと進む人物を背後の遠距離から捉えていたショットは、人物が不意にこちらを振り向く動作の途中で近距離から捉えたショットにつながれていた。また、森の中で暴れ狂う男の姿は、動きの途中で、森にいるショットと室内にいるショットがつながれていた。
『はるねこ』のアクションつなぎが異なる空間をつなぐものであったとするなら、『はだかのゆめ』のアクションつなぎは対照をなす2つの世界を反転させるものだ。そして『はだかのゆめ』は、生と死、彼岸と此岸、現実と夢、存在と不在を反転させ、それら二項対立だったものを無効化させる。そのことで『はだかのゆめ』におけるアクションつなぎは、世界観に関わる問題となる。
甫木元空には、映像をつないでいくことによって、物語世界を構築しようとするのではなく、世界の新たな見方を掴もうと試みているようなところがある。彼の探求はこれからも続いていくだろう。