《第4回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》「異邦人であること」ジャン=マルク・ラランヌによるデルフィーヌ・セリッグについての講演 後編
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想像力と蜂起する欲望
ここで意味深いと思われるある問題を検討していきたいと思います。それは、出演した映画の中でどのようにデルフィーヌ・セリッグがしばしば暴力的な仕方で死ぬかということです。この問題に注目すると、あらゆる女優たちがフィクションにおける死の前では平等ではないということがわかります。たとえばカトリーヌ・ドヌーヴのような女優は映画でほとんど死を演じていません。彼女が死ぬシーンは120本近く出演した映画のなかでせいぜい4、5回です。あたかも彼女の持っている、穏やかな力強さの中にある輝きのような何かが、生死に関わる問題が扱われているフィクションの中に彼女がいることを想像させまいとするかのようです。反対に、イザベル・ユペールは、映画でたびたび死んでいく姿を演じています。あたかもユペールという女優の力強さが、極限の状況の中で彼女を破滅に陥れたいという気を呼び起こすかのようであり、そこで彼女はギロチンにかけられたり、刺し殺されたり、あらゆる種類の事故や出来事の犠牲者になっています。
デルフィーヌ・セリッグは、スクリーンでよく死ぬ女優たちのカテゴリーに属していて、彼女は非常に頻繁に映画の中で殺されています。女性殺しや嫌がらせ(ハラスメント)の問題はすでに彼女の初主演作である『去年マリエンバードで』の中心に置かれており、絶えずこの盲点をめぐって語りが展開していきます。彼女は『ジャッカルの日』(73)、『ドラブル』(74)、『アロイーズ』(75)の中でも死を演じています。そしてそれは取るに足らないことではないと私は思っています。彼女が1972年に出演した、ハリー・クメール監督の『赤い唇』という映画の抜粋をこれからご覧いただきます。彼女はそこで女性の吸血鬼を演じています。抜粋は映画の終わりの部分であり、これから昇ろうとしている日に焼き尽くされないように身を守るため、彼女は愛する女性とともに車でホテルへ戻ろうとしています。
抜粋8 : 『赤い唇』
この映画で驚くべきなのは、彼女の演じる登場人物に対する映画の仮借のなさ、サディズムです。激しく罰するのに車の事故で死ぬだけでは十分ではないかのように、彼女は杭にくし刺しにされます。さらには、火刑台の上にいるかのようにして体を燃やされ、まるで中世ヨーロッパで行われていた魔女の公開処刑を見ているような気持ちにさせられます。これらの驚くべきシーンを、4年後に撮られた別の映画のシーンと結び付けたいと思います。それはマルグリット・デュラスの映画であり、デュラスとセリッグが一緒に撮った4本目の『バクスター・ヴェラ・バクスター』(77)です。
抜粋9 : 『バクスター・ヴェラ・バクスター』
『赤い唇』では、デルフィーヌ・セリッグは魔女のように処刑され、『バクスター・ヴェラ・バクスター』では、魔女の歴史的な神話を分析しています。魔女という人物像は、男性たちが女性たちを抑圧するために考えたものです。男性たちから自立した存在になる能力と、男性たちからは逃れ去ってしまう関係を自然、自然の力、世界と結ぶ能力を女性たちが持っているがゆえに、男性たちは女性たちを断罪します。
デルフィーヌ・セリッグがしょっちゅう映画の中で死に、しばしばひどい死に方をするのは、そうしたことと関係があります。力強い女性たち、自立を要求する女性たちは、自分たちが犠牲になっている搾取を告発します。彼女たちはつねに魔女だと決めつけられて社会のシステムによって追い回されて殺されていたのです。
実生活でも、デルフィーヌ・セリッグは「暴力」を被ることになります。1970年代末から、フランス映画界は彼女を遠ざけていくようになり、彼女に回ってくる役はだんだん少なくなり、非常にマイナーな企画しか持ちかけられなくなります。彼女は映画業界からもはや必要とされなくなる。それはいまだに50歳以上の多くの女優たちに起こることではありますが、デルフィーヌ・セリッグの場合、映画の世界のことやそこでの女性差別のことを強く批判したので、より一層厳しい仕方でそうしたことが起こったのです。
1990年に58歳で亡くなった時には、デルフィーヌ・セリッグは過去の女優、つまり60年代70年代のスターのようにみなされていました。しかし不思議なことに、彼女が亡くなってから30年後、彼女はいまだかつてなかったほど現代的であるように見えます。若い世代のシネフィルたちやフェミニストたちが熱狂して彼女を再発見し、彼女についてのラジオ番組やドキュメンタリー、戯曲がどんどん増えているのです。
彼女はまさに再びひとつのシンボルに復活したわけです。それは芸術的な要求の高さのシンボル、そしてもうひとつは、自立して自己啓発していく、自らを解放していく女性としてのシンボルです。
ここで『家庭』(70)の抜粋をお見せしたいと思います。トリュフォー監督、ジャン=ピエール・レオー主演による「アントワーヌ・ドワネル シリーズ」の4本目の映画です。したがって先ほど抜粋をご覧頂いた『夜霧の恋人たち』の続きとなります。今回、デルフィーヌ・セリッグは出演していませんが、その代わりにこのシーンがございます、ご覧下さい。
抜粋10 : 『家庭』
映画の中では、アントワーヌ・ドワネルと彼の若い妻には少し謎めいた近所の住人がいて、彼がどういう仕事をしているのか誰も知りません。ビルに住む住人たちの何人かも同じように、彼がシリアルキラーなのではないかと恐れています。そしてテレビを見ている時にドワネル夫妻は彼がものまね芸人だということを知るのですが、彼がまねている人物がまさにデルフィーヌ・セリッグなのです。まず彼は『去年マリエンバードで』の一場面をまねします。しかし次に彼が『夜霧の恋人たち』の一場面をまねすると、突然このトリュフォーの映画によって物語的なひねりがもたらされます。というのも『夜霧の恋人たち』で見たこのシーンは『家庭』のこのシーンのフィクションと同じレベルにあるとされているからです。これはアントワーヌの私的な思い出であるとみなされている場面です。ところがセリッグの演じる登場人物の発言がものまねの対象となっているのは、フィクションのレベルが変えられたからです。つまりもはやそれは映画の一場面だったというわけです。ジャン=ピエール・レオーが巧みに歪ませた顔のクローズアップは、語りの上で起こったこうしたちょっとした眩暈を示しているでしょう。彼は突然テレビで剽窃されたアントワーヌ・ドワネルについての個人的な思い出を目にしているのでしょうか、あるいは自分が主要な登場人物を演じるトリュフォー映画の一場面のものまねを見ているところなのでしょうか?レオーのクローズアップでは、登場人物が、自分が映画の登場人物でしかないということを突然気づいているように見えます。そしてまさにそれこそがデルフィーヌ・セリッグの力強さのうちのひとつなのです。様式化された過度な演技によって彼女は、映画は映画のものであるということを指し示し、そこから人工的なものを示し、脱構築するのです。
この場面が意味しているのは、デルフィーヌ・セリッグがまねしたくなる人物であるということでもあります。この場面を演じている俳優はクロード・ヴェガです。彼は俳優のものまねを専門としていてデルフィーヌ・セリッグは彼のお気に入りのモデルでした。彼はしばしば彼女の仮装をしていました。そして女役を演じる男優(トラベスティ)にとってデルフィーヌ・セリッグが理想的なモデルだったのは、彼女自身にクィア的何かがあり、あたかも彼女が自分自身に仮装していたかのようだったからです。ブルジョワ出身だった彼女は、そのブルジョアの属性を捨て、映画によってそれらを再発見します。ひとりの女性として、女性性に重くのしかかる社会的な命令を告発しましたが、それらを活用、演じ、自分自身のもとに送り返してみせました。模倣、パロディー、転用、仮装(トラべスティ)は生涯、彼女の武器だったのです。
そして今日、新たな人々、若い女性や男性たち、若い芸術家たちなどがデルフィーヌ・セリッグを手本として、自分たちのモデルとして選び、彼女から想像力、そして蜂起する欲望を汲み取っています。
ご静聴ありがとうございました。