『セールスマン』アルバート&デヴィッド・メイズルス、シャーロット・ズワーリン
板井仁
[ cinema ]
「みなさんは人生で今がもっとも尊いはずです。なぜなら今のみなさんは、お客様に幸福を届けているのだから」
大勢の販売員たちが集う研修会の壇上で、メルボルン・フェルトマン博士と紹介される男は語る。博士の熱意とは対照的に、無表情、あるいは煙草を吹かしながらこの講演を眺めている販売員たちは、家族のもとを離れ、列車や車でアメリカ各地を巡回しながら高価な聖書の訪問セールスをおこなっているものたちなのだが、フェルトマンに言わせれば、彼ら/彼女らが顧客に提供しようとしている聖書は詐欺的な商品なのではない。それは、顧客に「喜び」や「幸福」を与えるものであり、その仕事じたいも価値のあるものなのである。だから、日々の生活を送るだけで精一杯の貧しい顧客たちを、巧みなセールストークによって説き伏せて契約を結ぶことにたいしては、いかなるうしろめたさも必要はない。それは、彼女ら/彼らに「幸福」を届けるためのおこないであり、善行とみなされるものなのだから。
本作は、1966年のアメリカにおいて、ミッドアメリカン・バイブル・カンパニーから派遣された聖書の訪問販売を行う四人のセールスマンを追いかけたドキュメンタリーである。セールスに悪戦苦闘する販売員たちを映しだしながら映画が明らかにするのは、資本主義と信仰との密接な関係である。彼らがセールストークのはじめに語るように、彼らは企業からではなく、「教会」から派遣されたものとして振る舞っている。訪問販売員とは、各地を巡回する伝道師なのだ。顧客にとって、金銭的所有の貧しさこそが精神的な豊かさに至る――たとえば貧しさが「至高の善」であるとされるフランチェスコ会士のように――のであれば、1ドルの余裕さえない貧しい生活であっても、「幸福」のために高額商品を契約することは善なのだ。そして、たとえ手持ちのお金がなくとも、「幸福」は、クレジット(信用=信仰)払いで手に入れることができる。
訪問先の家庭で、ある一人の顧客が自分の仕事の不満を語りながら、セールスマンは上司もいないし会社勤めよりもいい、と彼らの仕事を持ちあげるとき、彼らはそれにたいして自分たちは「自由」であることを語る。彼らは、自己を自律的で「自由」な存在とみなし、あるいは顧客にもそうみなされているのだが、しかしその「自由」は、経済活動からの自由を意味するのではない。むしろそれは、「自由競争」への強制参加であると同時に、個人を起業家=企業家とみなすことで、資本主義がもたらすあらゆる社会的責任を雇用者が個人へと押しつけることを可能にする自由である。また同時に、労働者にたいして遵守すべき保障制度を適応しないことさえ可能にするのである。
企業はこのようにして、販売員たちの苦悩や困難、顧客への罪悪感を、信仰あるいは道徳をもちいることで覆い隠し、かつ「努力すれば稼げる」と啓発していくことで、それが自発的な行動であるかように仕向けていく。列車に乗り込み、座席に座りながらぼんやりと窓外を眺める販売員ポール・ブレナンの横顔は、「売れないのは自分の責任である」「言い訳を並べるのは終わりにして上手くいかない責任と向き合いたまえ」と語る販売会議におけるマネージャーの言葉に重ねられるのだが、ここでブレナンの横顔は、窓外の明るさとは対照的にほとんど暗くつぶれている。列車の走行音は鼓動する心臓音のようにも聞こえ、ブレナンの苦悩がいっそう示されてもいる。しかし、マネージャーが「責任」として販売員へと押しつけ重ねていくものは、販売員側の「責任」などではなく、競争において前提とされる不都合や不平等なのではないだろうか。
このシーンは、列車の走行音をのこしながら、販売員たちが自分の夢や売上目標を語るシーンをさしはさむのだが、それによって強制的な競争への参加が、あたかも自発的なものであることとして錯覚させられていく。しかしそれは、内面化された起業家としてのあり方である。販売員たちは、努力しつづけなければならない圧力と、そのようなライバルたちを目のあたりにすることによって、さらなる無力感に苛まれていくのである。しかし果たして、彼ら/彼女らは無力であるだろうか。そうした感情は、競争原理によってもたらされたものではないだろうか。
あらゆる苦難や不幸が生起しても、販売員たちは、それを神の無能さと結びつけることはしないだろう。むしろそれは、個人の「責任」であり、救済に至るまでの過程に内在する、神の有能さの証拠にさえなる。高額な商品を売りつけられる顧客ばかりか、苦難のうちで詐欺的なセールスをおこなう販売員たちもまた、信仰を盾に搾取されている存在なのだ。
『グレイ・ガーデンズ ふたりのイディ』アルバート&デヴィッド・メイズルス、イアン・マーキウィッツ 隈元博樹