『やまぶき』山﨑樹一郎
結城秀勇
[ cinema ]
群像劇というほどには、明確な主人公がいないわけではない。でも群像劇と呼びたくなるほどに、フレームの中に映り込んだ人たちがしっかりとそこに根を張っていると思える瞬間がある。一例を挙げるなら、和田光沙演じる美南が松浦祐也演じる元夫と話す場面。松浦が東北のイントネーションで語り始めた瞬間、映画の序盤で「私はもう帰れない」と呟いた美南の、「帰るべき方角」はそっちなのだとわかる。ただそれだけのことで、彼女がそこを捨てて娘とふたりこの土地に来た理由などなにもわからないのに、彼女のことが少しわかった気になり、彼女にこの映画の中に居続けて欲しいという気になる。そして、この映画の登場人物たちがそれまで思っていた以上に、どこかからこの土地に流れ着いた人たちばかりだということにも気づく。
逆に言えば、主人公とされるチャンス(カン・ユンス)と山吹(祷キララ)のふたりもまた、彼ら以外の人物と同じかそれ以上の不確かさにさらされてこの土地にいる、ということなのかもしれない。カタカナで書いた時の、chanceとのダブルミーニングにも関わらず、チャンスは自らの求めるものを手にする好機をつかみ損ね続けてこの場所にいる。山吹は、桜と同じ時期に日陰にひっそりと咲く花の名前を与えられ、同時にその花の名は黄金の隠喩でもある。彼らの名に込められた複数の意味は、彼らがこの地に根を下ろすための豊穣な地盤となるよりも、伸ばそうとする根を冷たく弾き返す岩場のようなものとしてあるようにも思える。
そのせいでチャンスは、自分が欲望する金銭が手段なのか目的なのかを混同してしまう。そのせいで山吹は、主義主張の異なる人たちが行き交う最前線としての交差点に立つ。山吹が父親からサイレントスタンディングしていることを叱られるとき、彼女が声を届けたいと願う「遠くの誰か」が、具体的にどのあたりを指しているのかは観客にはまだわからない。けれど、「ただ立っているの」と静かに呟く彼女の顔を見るだけで、彼女がいまいる「ここ」のことはたしかにわかる。その「ここ」には、思想も来歴も立場もまったく異なる人たちがいる。だが、そのいろいろと違う人たちは別にそれらによって対立しているわけではない。たしかにある瞬間を切り取ればそんな構図に見えるのかもしれないが、美南に「帰るべき方角」があったように、「ここ」にいるひとりひとりにも彼らが来た方角や道筋がある。『やまぶき』という映画は、「ここ」にいる人々を対立の構図ではなく、交通の軌跡としてとらえようとする。
山吹のいる「ここ」のことがたしかにわかり、彼女の来た方角がわかるなら、その線を先に延ばせば、彼女が声を届けたい「遠くの誰か」のことも少しはわかるのかもしれない。そしてそれは思うよりも抽象的でも非現実的でもなく、意外と具体的に想像できるかたちで存在するのかもしれない。パンフレット所収のインタビューで、祷キララは自分が四年前に演じたキャラクターを、演じたそのときよりも完成した映画を見たときのほうが「遠くに感じなかった」と語っている。そのくらいの距離に、絵空事でもファンタジーでもない遠くの誰かは、たしかにいる。