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December 16, 2022

『RRR』S・S・ラージャマウリ
作花素至

[ cinema ]

phonto.jpg  美しい森に暮らす純朴な民。異人種の暴君に母親を虐殺されたうえ攫われる幼い娘。嘆く村人たち──。観客がこれまでにも数え切れないほど目にしたであろう物語の光景の、いっそう誇張されたようなバリエーションによってこの映画は始まる。事実、インド独立運動の闘士となるべき男たちの大英帝国との戦いを見せる本作はスーパーヒーローものと呼ばれるジャンルのクリシェに満ちていて、その思わず笑ってしまうような極端さはヒロイズムに対する風刺のためではないのかと思われるほどだ。とはいえ、そこには明らかに誇大妄想的でマッチョなナショナリズム(民族自決を追求した百年前のものというより、今現在のそれ)が開示されているのだから、風刺の外観は実は観客を油断させるための巧妙な迷彩なのだろう。それにもかかわらず『RRR』がなおもその魅力を失わないとしたら、それを根底で支えているのは、クリシェの合間に現れる、名前など付いていそうもないユニークな運動なのだと思う。
 たとえば、二人の主人公、ビーム(N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア)とラーマ(ラーム・チャラン)が出会うシーン。それまで並行的に物語が進んできた両者がついに同じ橋の近くに居合わせる。どう出会うのかと思っていると、都合よくタンク車からオイルを盛大に漏らした貨物列車が現れ、案の定、橋の上で爆発火災を起こす。ビームのために川で魚を獲っていた少年がピンチに陥り、群衆の中から二人が救出に乗り出す。その救出劇というのが言葉では説明のしようもない、途方もなく大袈裟なアクションなのだ(なお、映画を通じてビームは水、ラーマは火をシンボルにしており、このシチュエーションもそれらの交わりとして設定されている)。また、映画の後半においては、二人のヒーローが衝突と和解を経て共闘を開始するとき、獄中で脚を痛めたラーマをビームが肩車するという奇抜な形態でイギリス軍を蹴散らしていく。それらの曲芸的な運動は単に笑いをとるためのドタバタ劇としては演じられておらず、あくまでも真剣そのものであるが、創意工夫によって生み出されたばかりの無名の「技」が常套句的な表現と過剰な演出の中に現れる瞬間こそ重要なのだと思う。
 さらに、ユニークなのは派手な武闘や曲芸だけではない。最も印象深い場面である「ナートゥ」のダンス対決がどのような契機で開始されたかを思い出してみる。ビームは、イギリスの若くて美しくて心の優しい、「プリンセス」の典型のような婦人ジェニー(オリヴィア・モリス)の招きで舞踏会に参加するが、彼を妬んだ白人青年によって転ばされてしまう。彼はウェイターに衝突し、飲み物を乗せた銀の盆が落下する。不始末をしでかしたビームは人種差別的な言葉とともにその踊りを嘲笑される。名誉挽回の契機は、そのとき、一貫して(スローモーションで)転がり続けていた銀の盆が地面に倒れようとするところをラーマによって蹴り上げられ、ドラムセットの上に騒々しく着地し、楽器と一体化してしまうことで一瞬のうちにもたらされるのだ。むろん、「ナートゥ」の見事なパフォーマンスあってのシークエンスではあるが、銀の盆の逸脱した使用法にこそすべての状況を転換する力が秘められていたといえるだろう。
 このように今なお説明を持たないということ、既存の知に還元できないということは、この映画のアクションのみならず、少なくとも私にとってはまだ馴染み深いとは言えないインド映画そのものにも当てはまる。ひいては、映画を見る快楽の本質でさえあるかもしれない。『RRR』が幸福な映画として観客の記憶に残り続けるとしたら、それは意味を超えたところにある何かを目撃したからに違いない。