『浦安魚市場のこと』歌川達人
結城秀勇
[ cinema ]
マグロ「血ぃ気にしないで、おいしいから」、タコ「みんな頭嫌がるけど、柔らかくておいしい」、シャケ「魚屋は切り身で決まる」、マグロの皮「千切りにしてポン酢にタバスコいれてアサツキをかけるとうまい」、トリ貝「これは小さいから開かなくていい、だからうまみが逃げない」、サメ「加熱すると本当にうまいから、ソテーとかフライとか」。なんてことを言われれば誰でも「今晩はお魚にしようかしら」となるのだが、そんないい魚屋が近所にあったら嬉しいね、というだけならこんな映画がつくられる必要はない。
鮮魚店「泉銀」の主である森田釣竿は、バンド「漁港」のVo.「船長」という顔も持っている。バンド活動を行うきっかけの詳細は劇中でほとんど語られることがないので、なんで「船長」?漁師じゃなくて魚屋でしょ?と首を傾げつつ見ていると、フッテージが画面内に挿入されて、浦安という街の過去が呼び出される。何百年もの間漁師の集落だったこと、しかし工場汚染水の影響で漁業権を放棄し埋立地となったこと。浦安魚市場は、ここに住む者たちのもうすでに失われたアイデンティティの象徴である。サウダーヂ。「漁港」のライブ前に繰り広げられる、「オラオラオラオラー!」と叫び声を上げながら登場し、包丁を振り回すパフォーマンスは、ただの客引きの芸ではなく、たとえ埋め立てられようが忘れ去られようが決して消えることのない怒りの残り香でもある。
その浦安魚市場が閉場する。しかしこの映画は、厳密にはただなにかの終わりを描いているのとも少し違う気がする。先に書いたようにそれは、すでに終わっていたなにかの終わりであるからでもあり、池八の女将さんが言うように、続いている間でさえ終わりと別れの連続でもあったからでもある(しばらく見ないなーと思ってると、ふらりとやってきて話をして、少し魚を買って別れ際に握手をする。そしてまた全然来ないなと思ってると、あの人亡くなったよって聞く。そんな人が何人もいる)。
この作品で一番胸に残っているのは、中盤の「漁港」のライブのMCで船長が言う、「魚屋をやってていい思い出なんてひとつもない。だから自分たちの世代でそれを楽しいものに変えていきたい」という一言だ。それが印象的なのは、これまで聞いたこともないセリフだからではない。正反対に、最近の農業や酪農などの第一次産業のドキュメンタリーを見るととにかく頻繁に耳にする言葉だから、忘れられないのだ。百姓や牛飼いや漁師や、そして魚屋も、続ける苦労がわかるなんて口が裂けても言えない。でもうまいものをつくって、仕入れて、よりうまそうにして売ってくれる人たちに楽しみがないなんておかしすぎる。金をくれとは言わないまでも、せめて楽しみを奪うなよと。
もちろん、長年続いてきたものがなくなってしまうのは、寂しいしくやしいし悲しい。それでもこの映画は終わることよりも続けることを描いた作品のような気がしてならない。息子がライブのMCで喋った直後のシーンでやはり「魚屋をやってて楽しいことなんてひとつもなかった」と言った船長のお母さんが、魚市場の閉場も押し迫る中で「(泉銀を)残してよかった」と呟く。私は浦安魚市場に行ったこともなければ、これから行くことももうできないが、泉銀の新店舗はまだあり、お母さんには「残してくれてありがとう」と思う。いつか泉銀に行ったら、怒りも悔し涙も愛も全部詰まった声で、店主は「魚を食え!」と言ってくれるだろうか。
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