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January 12, 2023

『にわのすなば』黒川幸則
隈元博樹

[ cinema ]

niwa_sub1.jpeg 方々に点在する更地や駐車場、町工場の外観が画面上に姿を現すと、鋳物産業の街として有数な埼玉の川口であることがわかってくる。タイトルにある「すなば」は鋳物づくりに欠かせない鋳物砂から来ており、たとえ映画の中で「十函」(とばこ)という架空の名があてがわれようとも、目の前には鋳物づくりを支えてきた土地の記憶の断片がそこかしこに息衝いているのだ。そんななか、キタガワ(新谷和輝)の紹介で初めてこの地を訪れたサカグチ(カワシママリノ)は、十函の魅力を伝えるための取材仕事を半ば強制的に引き受けることとなり、さほど乗り気もなくリサーチという役目を携えながら、ぐるぐると同じ場所を彷徨い歩いていくことになる。
 サカグチたちとともに十函を巡っていくと、どこか「不思議の国のアリス」の世界にいるような心地を覚える。もちろんここにはキノコの秘密を教える芋虫も出てこなければ、ニヤニヤと笑って消えていくチャシャ猫も現れない。アリスが出会う物語上のキャラクターを本作の登場人物に無理矢理当てはめることもできなくはないけれど、言わば川口という磁場が持つ現実の上に十函という風呂敷が一面に敷かれ、プレーヤーである十函の人々はサカグチの取材対象として、あるいは彼女の動向を見守っている人物たちであるかのようだ。とはいえ、『にわのすなば』に微笑ましさを禁じ得ないのは、取材を行うサカグチが次第に十函への興味を失い始めることで、よりフィクションとしての可動域が広げられていくことにある。つまり彼女が試みたリサーチが文字通り言葉のみ独り歩きを始めていくにつれ、十函の魅力に迫るという当初の目的は見る見るうちに遥か彼方へと追いやられていく。ただそのことと引き換えに、サカグチは十函で出くわす人々と戯れることを選び、大きなできごとに巻き込まれるでもなく、淡々とした日々の中にかすかな悦びを見出していくのだ。ふとしたことで訪れる出会い、別れ、出会い、別れ......。それはサカグチだけに留まらず、かつて恋人どうしであったキタガワとヨシノ(村上由規乃)との過去の記憶の断片にも繋がっていく。そして気が付けば、誰しもが家に帰ることも、十函への愛といったことも、もはやどうでもよくなっていたりする。
 そんな十函という不可思議なフィールドがこの映画を取り巻く大きなにわであるならば、後半に催される町工場の周縁で行われるフェスとは、その大きなにわに内包されたもうひとつのにわだとも言えるだろう。ただフェスと言っても、街中の人々が一堂に会する規模で行われるものではない。まばらに酒を酌み交わしては、ラップトップのPCから流れる音楽をバックにおしゃべりしたり、好き勝手に花火やダンスに耽る人々。しかしそれは、単に閉塞した空間を各々に形づくろうとしているのではなく、この地に点在する更地や駐車場、さらには町工場の姿と同じようにして、映画の中の個々の独立したにわのようでもある。集団行動さえ強いることのない自由な意思のもと、大きなにわとは異なる次元の中で、にわの人々は闊達な調子で自らのにわを形成するのである。
 見ず知らずのうちに生まれたにわたちは、きっと次の日もこれから先も彼/彼女たちのもとに生まれることはない。だからこうして『にわのすなば』の人々が嬉々として見えるのは、何ら特別でもないこの瞬間が、たった一度きりのひとときであることを知っているからなのかもしれない。フェスの翌日、橋の上で寝そべるキタガワや、具合を悪くしながらバス停へと向かうサカグチの姿は痛々しい(既視感さえ覚える)けれど、あの日あの時のとっておきの瞬間に立ち合うことができるならば、酒瓶片手にどこか知らない場所をふらっと彷徨い歩いてみるのも悪くはないと思ったのだった。

ポレポレ東中野にて公開中

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