『別れる決心』パク・チャヌク
三浦光彦
[ cinema ]
本作の主人公ヘジュン(パク・ヘイル)はエリート刑事であり、基本的に物事を単独で解決する能力に優れている。所々にヒッチコック作品へのオマージュが見てとれるが、身体的・精神的な欠損を抱えた『めまい』や『裏窓』の主人公たちとは違い、彼は自身の限界を何らかの道具を用いることで突破していく。寝不足による目の疲れは目薬で無理やり回復し、スマートフォンを用いて事細かなことをいちいち記憶することによって、事件を解決しようとする。「張り込みをしているから寝れていないのではなく、寝れないから張り込みをする」という行動原理こそが彼がエリートたる所以である。結果として、必然的に彼のコミュニケーションは自己再帰的なものとなる。このことは、捜査の過程において、自身の声をスマホに記録し、その声を聞き直すという、一連の動作において明確にされている。
へジュンは山の頂から転落死した男性の事件を担当することになるが、徐々に被害者の妻であると同時に容疑者であるソレ(タン・ウェイ)に心を惹かれていく。介護の仕事をしているソレは他人の身体のケアをするという点で、へジュンと対照的な人物として登場し、このことが、へジュンがソレに魅了される理由としてひとまずは納得される(へジュンの妻は、ザクロを食べることで閉経を遅らせようとし、スッポンを夫に食べさせることによって、精力をつけさせようとするという点で、へジュンと行動原理を共にしており、結果として二人は破局する)。
二人の二度目の接触は、取り調べ室においてなされる。このとき、ソレはスカートをたくしあげ、太ももの傷を見せるという、わかりやすく官能的な身振りによってへジュンを誘惑する(ようにみえる)が、それ以上に重要なのは、取り調べ室に設置されたマジックミラーに二人が映し出されるという事態である。ここで、ソレはへジュンの再帰的な行動(鏡に映る自分を見る)に介入する他者として現れる。ここからヘジュンによるストーキングすれすれの捜査が開始されるとともに、翻訳アプリを通じた二人の距離の接近がなされる。ソレは元々中国人であるが故に、独り言は中国語で発せられる。ヘジュンは彼女の言葉を盗み聞きしては、翻訳アプリを通して意味を確認する。スマホから聞こえてくる翻訳された韓国語は男性の声で、ヘジュンがスマホに吹き込む声との違いを識別できない。二人の声の交錯が、二人の間の引力となり、こうした一連の流れに対応する形で映画の語りは複雑化される。ヘジュンのフラッシュバックにソレの声が重なり、ソレのフラッシュバックにヘジュンの声が重なり、物語の時空間は極端に短絡されていく。通常、主観的な語りの方法として用いられるフラッシュバックは、次第に間主観的なものとなり、画面運動そのものが直接的な性描写の代理として、猥雑さを帯びはじめる。不眠症で悩まされるへジュンが、ソレの呼吸のリズムに自分の呼吸のリズムを合わせることによって、安らかな眠りにつく場面において、二人のロマンスは絶頂を迎える。
しかし、ソレが犯行に使用したもう一つのスマホをへジュンが発見することで、二人の関係は終わりを迎える。スマホは映画全体を通じて、二人自身の代理として機能しているため(ソレの台詞「あなたの睡眠と私の睡眠をバッテリーみたいに取り替えたい」)、へジュンによるもう一つのスマホの発見は、常に本心を隠しているようにみえるソレに対してへジュンが限りなく接近したことを意味する。惹かれるが故に破局する。二人の危うい関係の二重性が露呈する。へジュンはソレにスマホを深い海に投げて捨てるよう要請し、自分が「完全に崩壊した」ことを彼女に告げる。スマホを捨てろという要請はロマンスの終焉を意味すると同時に、彼がソレのために有能な刑事としてのアイデンティティを捨て去るという点において、この言葉はそのまま究極の愛の告白にもなる。
映画後半、一度別れた二人が再び出会う。ソレは、前半におけるへジュンの行動を反復する。へジュンを監視し、自分の声をスマホに吹き込む。彼女は見る/見られるの関係性を反転させ、今度は自身の再帰的な行いの中にへジュンを巻き込んでいく。前半においてへジュンが「完璧な刑事」であったように、今度はソレが「完璧な犯人」であろうとする(へジュンはソレに今度は「完璧なアリバイ」を作るよう要請する)。と同時に、へジュンも彼女との再会によって、エリート刑事としてのアイデンティティを取り戻しはじめる(ソレは捨てるよう言われていたスマホを返却し、「崩壊」前に戻るようへジュンに要請する)。徹底的な捜査を行うこと、徹底的な隠蔽を行うことがお互いへの愛の表明となる。ソレの完璧さがへジュンの完璧さを上回ったとき初めて、二人のキスがカメラに収められる。声の絶え間ない交錯の果てに、やっと二人の口が接触する。
だが、再びスマホが、今度は海の中から見つかってしまう。誰にも見つからないよう海に投げ捨てたスマホすら見つけてしまうへジュンのソレに対する執着の前で、「あなたの未解決事件になりたい」という彼女の願いは挫折する。だから彼女は最後の手段にでる。ソレはへジュンに対し、そのスマホを海に再び捨てるように、つまり、もう一度、今度は彼自身の手によって「崩壊」するよう要請する。彼はソレのスマホから流れてくる自身の声を聞いて、彼女の名前を呼び続けるほかなくなる。そして、ソレは自殺によって、今度こそ彼にとっての「未解決事件」となる。彼女は古典的なファム・ファタールのように、男性に欲望された罰として死に追いやられるのではなく、死ぬことによって欲望をかき乱す。互いが互いのために破滅するとともに、そのことが二人の間において愛の証となる。
本作は、前半と後半の差異を伴う反復を通じて、二人の間の欲望の方向を徹底的に撹乱する。男/女、主体/客体、見る/見られる......といった安定した二項対立、主従関係はもはや成立せず、それらは常に揺れうごく。そうした揺れうごきは二人の愛の成就/破局が同時に起こらざるを得ないという関係の二重性と重なり、物語を異様なスピード感で駆動させていく。ヒッチコック作品を意識しながらも、その簡潔で洗練された語り口とは無縁な、せわしないカメラの動きと編集には、映画芸術にとっての原風景でありながら、欲望を固定化させる高度なイデオロギー装置としての役割を担っていた古典ハリウッド映画の文法に対する明らかな挑発が見てとれる。無論、カメラをはちゃめちゃに動かし、編集を凝りまくる映画は多くあれど、パク・チャヌクは緻密なプロット構成とミザンセーヌによって、手法と主題を一致させる。だが、それ以上に、一歩間違えれば、凡作になりかねないこの作品の繊細なバランスを支えているのは、ソレを演じたタン・ウェイの顔だろう。怒っているのか、喜んでいるのか、はたまた、泣いているのか、笑っているのかも曖昧で、単一な意味解釈を許さないその顔は、一向に画面に定着しない。確かにこの目で見たはずなのに、後から思い出そうとしても思い出せない、その霧の中に包まれたような顔こそが、観客の欲望を撹乱し、この作品をラディカルなものとしているのだ。