『フェイブルマンズ』スティーヴン・スピルバーグ
作花素至
[ cinema ]
少年にとって、映画は両親との思い出と分かちがたく結びついているはずだった。彼を映画館へと誘い、同じスクリーンを見つめていた両親との幸福な一体感とともに、初めて目にした映画の衝撃は描かれるし、少年が自らの手でカメラを回すようになるのも、家族や友人たちとの親密なコミュニティの中においてであった。しかし、フェイブルマンという名を持つ一家はやがて解体へと向かい、彼のもとには映画だけが残される。そのとき彼は何を見つけるだろうか。
はじめに、スティーヴン・スピルバーグの分身であるサミー・フェイブルマンという少年(ガブリエル・ラベル。幼少期はMateo Zoryan Francis-DeFord)が映画と初めて出会った時のことを振り返ってみたい。幼い彼の目に刻み付けられたのは『地上最大のショウ』(セシル・B・デミル、1952)における列車と自動車との衝突の場面であり、それは精巧なミニチュア特撮によるスペクタクルであった。合成やスクリーン・プロセスが駆使されていたとしても、特撮の映像はつまるところ無人の光景であり、アクションを欠いたテクニックの場である。そして実際サミーは、父親(ポール・ダノ)からのプレゼントの鉄道模型を使ってそのスペクタクルを自ら再現するようになるのだ。暗いガレージで少年一人の手により繰り返し演出され、また初めて彼の手でフィルムに記録されることになる無人の衝突は、外の世界からかなり遠ざかった独自の想像の世界を作り出している。そこには、その後サミーが家族を中心とする比較的閉ざされたナイーヴな空間の中で映画と戯れていくことになる状況と似た構造が見出せるのではないだろうか。
成長したサミーにとってその戯れは、身近な他者とのコミュニケーションの一環でもある。ある時、かつてハリウッドで仕事をしたこともあるボリス大伯父さん(ジャド・ハーシュ)という人物が彼の前に現れ、自身の経験を踏まえて家族愛と芸術(もっと広く言えば創造の営み)への情熱はいつか対立するという図式を示してみせる。しかし、サミーの映画は必ずしも独りよがりの表現ではなく、家族に向けて(キャンプの記録)、また友人に向けて("Ditch Day"のビーチの記録)つくられもする。肉眼とは似て非なるカメラの眼が母(ミシェル・ウィリアムズ)の浮気を暴き、あるいは同級生の完璧な虚像を作り出すことで、それらの作品が不幸なレッスンになってしまったとしても、映画によって他者とより深く理解し合った関係が媒介されるという奇跡的な経験をもたらしたこともまた確かなのだ。
とはいえ結局のところ、一家はボリスが描き出した通りの図式によって解体へと導かれたといえる。サミーの母は彼と同じく芸術への希望を持ちながら、家事と育児に一人追われていることで秘かに苦しんでいる(ピアノの音色に潜む悲しみ)。発達著しいコンピューターの天才的なエンジニアである父は、どんなに優しくても家族のために職業を犠牲にすることは決してない。内部に抑圧を抱えた家族に楔が一つ打ち込まれれば、容易にバラバラに砕けてしまうだろう。キャンプの夜、サミーは自動車のヘッドライトの中で踊る母を撮影する。踊りは艶めかしく、彼女のネグリジェは逆光で透けている。異性としての母をそれぞれ等しい距離から見つめる父、サミー、そしてベニーおじさん(セス・ローゲン)という三人の男たちのうち、彼女はいつか、息子ではない誰かのもとへと駆けつけることになるのだ。
同時に、サミーの友人関係にも外部からの悪意が侵入してくる。自分の家だけがクリスマスの飾り付けを欠いているという最初の意識によって、幼少期から彼が自覚してきたユダヤ人としてのアイデンティティは、カリフォルニアの高校で実際に差別に直面することで激しく揺さぶられる。家庭も学校も安息の場所ではなくなってしまった。その痛みのゆえに、プロムの夜、無時間的な不思議な光に包まれた廊下で発せられた彼の「5分でも仲良くなりたかった」という言葉は、目の前の一人の他者を越えた射程をもって響くのだろう。
サミーは今や映画制作への衝動だけを抱えて、一人でいる。だがラストシーンにおいて、ある人物との閃光のような出会いが訪れる。ジョン・フォード(デヴィッド・リンチ)。この不意の遭遇の場面が真に感動的なのは、サミーにとってまさしく映画との出会い直しの瞬間だからではないか。それまで親密だが狭いコミュニティの内側で見よう見まねで映画をつくってきたサミーに対し、フォードは紛れもなくより巨大な映画史の流れに属しており、加えて規範を有している。ここで言う規範とは、いわゆる古典的なハリウッドの「文法」のことなどではなく、彼が独自に見出した一種の映像の理論のことだ。地平線は画面の下か上になければならぬ。真ん中では「死ぬほどつまらん」。もちろんサミーはここで単なる地平線の配置法以上のもの、強いて言えば無限にありうるイメージの中からただ一つのショットをいかにして撮るか、何を見て決定するかという思考の端緒を知ったのである。この瞬間、既に青年はまったく新しい場所に連れ去られてしまっているはずだ。だからこそ、この映画は祝福をもって終わることができる。映画の仕事の糸口を掴んで軽やかに遠ざかっていく彼を見送るヤヌス・カミンスキーのカメラが慌てたように動き出し、地平線が下になるようアングルを修正してみせるという素晴らしく「反則」的なサゲが、50年後のサミーによるサインである。
・『ウエスト・サイド・ストーリー』スティーヴン・スピルバーグ 梅本健司