« previous | メイン | next »

April 24, 2023

『上飯田の話』たかはしそうた
隈元博樹

[ cinema ]

上飯田の話_4地域の方.png 冒頭から聴こえてくる電子音につられるまま、上飯田の話たちに耳を傾ける。語弊を承知で申せば、そのサウンドの安っぽさに妙な高揚感さえ覚えてしまうのだが、劇中の人々にとってみれば、そんな軽快なリズムとは裏腹に、単純明快なできごとが繰り広げられるわけでもない。生命保険のセールスマンと乾物屋の店主による一向に噛み合わないやりとり(「いなめない話」)、弟夫婦の結婚式に出席しようとしない兄への説得(「あきらめきれない話」)、自分が上飯田で生まれ育ったことを想像しながら、撮影した写真と紡いでく日記の言葉によって地元民に成り代わろうとする青年の行動(「どっこいどっこいな話」)。どこか煮え切ることのない三つの話が、上飯田という磁場の中で形成され、人々の交流を通じて展開されていくのである。
 そもそも上飯田は横浜市(泉区)なのだが、言わば横浜を表象する都市のランドマークがある町ではない。とはいえ、本作では「上飯田ショッピングセンター」と呼ばれる住居一体型の団地群がロケーションの一角を占めており、上飯田の人々はこの場所で商売を営み、ひと際騒音の激しい道路沿いにある公園のベンチに腰掛ける。また時にはセンターの前で作戦会議の場を設けるし、夜は皆が集まる居酒屋で酒を酌み交わす。ごく当たり前の生活がそこには映っている。ただ、この映画が単なる地域映画の枠に留まらないのは、上飯田の魅力や特異性の発信に寄与するのではなく、作家自身が見ず知らずの場所をつねに自分と同じ目線で捉え、地に足を付け、あたかもその町の住人であることを自認した上で成り立っているからだろう。上飯田についての観察と調査、あるいはそこに住む人々へのインタビューを通じて得たドキュメントの強度が、やがてひとつのフィクションとして結実されるプロセス。その繰り返しを糧に、映画の中で決して交わることのなかった人々は、俳優であるかないかに関わらず、見る見るうちに上飯田の人々そのものになっていく。『上飯田の話』がエスノグラフィックムービーであることを宣言している所以は、こうした理由にある。
 とりわけ本作の中で異彩を放つのが、上飯田ショッピングセンターの手前に育つバナナの木々だ。なぜこんなところにバナナの木が......と思いきや、「どっこいどっこいな話」の中でナオキ(荒川流)が出くわす自治会長の方との場面は、この映画がもたらす見事な賜物のように思える。本来ならば分かちがたいふたつの話のタネ(ソフトボールの全国大会とバナナの苗木)は、ナオキと自治会長の邂逅によって芽を出し、風にそよぐこの木々たちのように大きく育ってしまうことだってある。まるでそんなことを言っているかのように、バナナの木々は上飯田に流れる時間を人々とともに共有しているのだ。
 『上飯田の話』には決定的な形で彼/彼女たちの住む家が映ることはない。しかしそのことは、上飯田という町がそこに生きる人々(あるいは生まれ育ったことをイメージする)にとっての大きな家であると同時に、小さなドキュメントの集積からひとつのフィクションへと昇華させる装置であることを示唆してもいる。何も特別なことは起こらないし、何の変哲もない事柄や突拍子のないことばかりだ。だけど、町も、人々も、団地も、センターも、そしてバナナの木々も、互いにいがみ合うことなく、家という画面の中で等価に置かれることで、知っているようで知らない場所は、知らないようで知っている場所であることに気付くことだろう。ともすれば『上飯田の話』というのは、何も特別な場所の特別な話ではなく、私の話でもあり、あなたの話でもあるのかもしれない。ふとそんなことを考えながら、今度は三つの話を経たあとに「チャンチャチャンチャンチャン」の電子音に耳を傾け直してみるのであった。

ポレポレ東中野にて上映中