『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』金子由里奈
二井梓緒
[ cinema ]
言葉にすること、そしてそれを声に出して他者に向けることがいかに疲れることなのか、また「誰か」に対する危険がいかに伴うことなのか。いつもは忘れがちな、自分の思いを言葉にして他者に発するのはあまりにも難しいということを、この映画は脚本=文字に起こし、俳優に発話させて、思い出させてくれる。それだけでもなんと尊いことなのだろうか。
主人公の七森(細田佳央太)は恋愛感情がない。
「いい感じ」になった同じ学年で同じぬいぐるみサークルに所属する白城(新谷ゆづみ)にいざ告白して交際しても、やっぱり何かが違う。七森は自宅に帰りひとり、「ぼくもこれで恋愛ができる」と呟くが、その台詞はなんだか呪いのようで見ていて傷つくし、そんな風に「みんなと同じになること」をゴールにしている社会がいまの当たり前なことにやっぱり落ち込んでしまう。自分のセクシュアルを定義するならアセクシュアルであるということに七森が気付くことは劇中ないが、それこそ言葉があるから、対話するから、彼はきっとこれからそういう言葉を知って安心するかもしれない。言葉は凶器でもあるし、安心でもある(だから怖くても、やっぱり必要なんだと思う)。というか、こんなにもSNSではジェンダーが当たり前のように言われるようになったのに(もしかして、私の周りだけ?)、アセクシュアルの人々が自然にそこにいるような作品がもっとあっていいはずなのに、ほとんどない。それこそ言葉にするのが難しすぎるから?もっというなら言葉にするのが面倒だから?
七森、そしてぬいサーに所属するもうひとりの同級生、麦戸(駒井蓮)はもちろんだが、本作は登場人物が多いなか、それぞれの魅力がきちんと掬いとられているのも素晴らしい。白城は所謂現代をサバイブする術を身につけている。わざとホモソーシャルの社会に属して、「男性」の言う差別的な発言を当たり前に浴び、就職を前にのしかかる差別にも半ば肯定的だ。というか、諦めている。白城が映画の最後に言う言葉からもわかるように、彼女の選択ももちろん正しいし、間違えてなんかいないし、七森や麦戸をはじめとするぬいサーの面々とは違った態度をとることは、違ったやさしさであるだけのことだ。というか、そういう態度を取らない限り、この世界ではいまだにどんどん、途方もなく傷つくばかりなのだから。
何の気なしに発した言葉が(たとえそれが誰かを守るための言葉であったとしても)他の誰かを傷つける可能性はつねにある。それに怯えると、何も言えなくなる。それはパートナーであろうと、いつも一緒にいる友人であろうと、血の繋がる家族であろうと同じだ。大学生の時ほとんど外に出れない時期があった私はどうしても麦戸に思いを重ねてしまう。きっかけは自分に向けられた刃だけではない。自分もその可能性があったと、ただ想像するだけでも人は案外簡単に壊れる。もっと重ねずにはいられないのは、家から出なかった私がとったアクションはねこに話しかけることだったから。言葉にしてみないと、そしてそれを発してみないと、わからないことがたくさんある。だからまずは人間ではないぬいぐるみでも、近くにいるあたたかい存在に声をかける。でも、人間じゃなくても、言葉にするのって相当骨の折れる行いだと思う。でもなるべく言葉にする努力をしたい。
ラストにぬいサーを見学しにくる新入生として出てくる安光隆太郎が本当に素晴らしい。とにかく駒井蓮はもちろんのことキャスティングがすごくいい。そもそも映画館は観客にとっては避難所でもあるはずで、この作品はまさにそうした「逃げ場」であった。暗い空間のスクリーンの光を感じて、なんだか安心した。