第76回カンヌ国際映画祭報告(2)ワン・ビン監督とともにーー『鉄西区』に魅せられて
カメラマン、前田佳孝インタビュー《前半》
[ cinema ]
今年のカンヌ国際映画祭の公式コンペティション部門に、長尺のドキュメンタリーであるワン・ビン監督『Jeunesse』が異例のノミネートを果たした。これまでの彼の作品とは違ったある種の軽さを持ち、官能性を感じる作品だが、このフィルムに日本人のカメラマンである前田佳孝が関わっていることはあまり知られていない。ワン・ビン監督の第二の「眼」として本作で共犯関係を結んだ前田氏に話を聞いた。
ーーワン・ビン監督初長編『鉄西区』に出会う以前の、前田さんの「映画」との関係をお話いただけますか。
前田佳孝(以下、前田) 映画は元々好きで、中学生の頃から映画制作の道に歩みたいという夢はありました。映画館で観る映画は中学~高校卒業までそれほど多いとは言えませんが、よくレンタルビデオ屋でVHSビデオを借りて量を見るということはやっていました。中学生では珍しいほうなんじゃないかと思います。映画館で観た映画で印象に残っている映画だとトニー・スコット監督『スパイゲーム』(2001) 、テレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1998)、ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』(1999) あたりですが、レンタルビデオで見た映画は雑多でどれがというわけではありません。ただ、中学生当時はキャメロン・ディアスが好きでレンタルビデオ店に飾ってあるほぼ等身大の立て看板をそろそろ新作落ちのタイミングで店員に聞いて「いらなかったらください」って言えるくらいの行動力を持つほどの映画好きだったとは思うし、それを自分のベッドの隣に飾る中学生は他にあまりいないんじゃないかなあとは思います。
ーー具体的にいつ映画への関心が、見る側から制作へと向かったのでしょうか。
前田 高校に入り実際に映画の道に進むにはどうしたらいいかなあという段階に入るんですけど、日本にはどうやら映画学科があって、近いところだと日本大学芸術学部があると聞き、「よしそこに行こう」と調べもしないで適当に考えてました。そこで普通は勉強を頑張るってことになるんでしょうけど、大した努力はせず、これといった受験勉強もしなかったので、日大芸術学部監督科の他、滑り止めの大学もすべてて落ちて浪人生になりました。
ここでひとつ言い訳があるのですが、高校3年生の燻ってた頃に読んだ坂口安吾の本と蓮實重彦『映画狂人』シリーズ、山田宏一『友よ映画よ わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』に大きく影響され、「ああ私は勉強では落伍しても偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであろう」なんて勝手に思い込んでしまって、都合よく自分を鼓舞するようなメンタリティはあったのかなとは思います。
それにあとで調べてわかったんですけど、日大芸術学部は尊敬に値する監督としては本多猪四郎と小沼勝しか輩出していないわけで、まあその二人だけでも十分すごいですが、アートスクールとしては大したことないのではないかと思い、別に結果行かなくても良かったとは思ってます。
ーーその後も映画への関心は続くんですね。
前田 浪人生になった後の話ですが、相変わらず勉強に身が入らず晴れて暇人の仲間入りになり、今まで行けなかった東京の映画館に通って、映画の道に進むべく修行僧として沢山映画を観なければいけないと考え、多い時は週10本以上のペースで映画を観ていました。浪人生という体ではありますが、ほとんど勉強していないわけですからニートみたいなものです。ちょうどこの頃運良くゴダール、トリュフォー、成瀬巳喜男、中島貞夫などのレトロスペクティブが行われており、修行僧として充実した映画鑑賞ができました。アニメイトの上にあった頃のユーロスペースのモーニングショーでアレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』(2002) がかかっていて、朝から同じように並んで入場を待っているお婆さんに「若いのに朝から偉いですねえ」と言われ、浪人生なのに気まずい思いをして苦笑いしてしまいました。
当時の自分の不甲斐ない思いを少なからず払拭してくれたのは、蓮實重彦のテクストではあるんですが、他にその実践者的存在として葛生賢さんの『Contre Champ』を同時代で毎日欠かさず読んでいて、勝手に励みにしていました。
この二人の存在が自分に勇気を与えてくれる人だという認識で、彼らのテクストがなければ自分はいつか映画人になるという根拠のない自信を維持することは難しかったと思います。両者とも東大卒であるということに目を瞑っておいて、自分でもストイックにその道を目指して努力すれば一定の成果を収めることができるんだと、浪人生ながら勝手に思ってました。だから勝手に心の中で先生と呼びたい相手がいるとすれば、蓮實重彦と葛生賢、あとアテネ・フランセの松本正道の三人になります。
さて、蓮實重彦の話から映画学校の話になりますが、アテネ・フランセで映画を見た後か並んでいる間に「映画美学校」のチラシがふと目に入り、なんだか怪しいなあと思いながらも裏の講師欄をめくって見ると、そこに蓮實重彦と書いてあったので「これは行くしかない」と思い、親に無理言って入れてもらうように頼みました。多少はバイトもしてましたが、浪人生として勉強もせずゴロゴロするドラ息子でも一応は学校と名がついているということで入れてはくれたんですね。呆れてたと思いますが。
何事においても早とちり、先走りする性格なので映画美学校に入った後でわかったことなんですけど、蓮實重彦は主要の講師ではなく特別講義で来るか来ないかくらいの存在だとわかり、最初の頃はちょっと残念に思ってました。映画美学校は7期初等科で入り最年少。しかも浪人生で入ったので私のような経歴は他にいなかったと思います。
ーー映画美学校では、どのように過ごされたのでしょうか。
前田 映画美学校での体験なども答えると長くなっちゃうので端折るとして、映画美学校にいる間にそこで『鉄西区』の上映会が行われ、朝から夜まで一日で観終えて大いに感動したということが出会いです。ここで買ったのか貰ったのか覚えてないですが、パンフレットのワン・ビンのプロフィール欄に「北京電影学院入学」みたいなことが書かれていて、「ワン・ビンが行った映画の大学なんだからきっと良いに違いない」と早とちり、先走りで勘違いしたというのが後の話に繋がります。
『鉄西区』については美学的に素晴らしいというのもありますが、これを一人で撮影してということに驚き、形式的な良さが当然あるにせよ、それ以上に撮影者のワン・ビンの存在を常に感じるというキャメラワークに感動しました。第三部の石炭拾いで生計を立てる父親と少年が、家から出ていった母親の写真を取り出してワン・ビンに見せるショットは、私にとって最も美しい映画のショットのひとつで、いつまでも理想に思っている映画の仕事です。
「一人で撮影して」というところに繋がる部分で、なぜ『鉄西区』に感銘したのかを説明すべきこととして、映画美学校に入る前に一度2週間ほど北京の親戚の家に滞在しています。母方の祖母が日本人でそれ以外は両親ともに中国人です。4歳の頃に日本に移住したあと、しばらくして日本に帰化するまでは元々中国人です。ですから父方の祖母は北京にいますし、親戚も北京にいます。小さい頃に帰省で二度中国に行った以外はずっと日本に住んでいますが、自分のアイデンティティについて悩む時期はありました。浪人生になってやることもないから親戚にでも会いに行って来いと母親に言われ、北京に一人で行ったんです。その時に家で誰も使っていないビクターのDVカメラ(フォーカスリングがない民生用のもの)を持って、滞在中はとくに目的もなく、まずは「駅から」というアバウトな目標を設定してあっちこっちを撮って。最後は祖母の家にある家族写真を撮ったりといった感じで作品を作るという。明確な考えを持たないまま、撮った素材を編集して中編のドキュメンタリーとして完成させましたが、数えるくらいの人に見せてます。その中には映画美学校の撮影の講師である山田達也さん、あとは同期で誰だかは失念してしまいましたが、VHSテープにダビングしたものを見せた人もいます。今思えば、あれが自分にとって最初にして最良の作品になるんですが、HDが壊れたり、元素材のミニDVテープをちゃんと管理してなかったので、どこかに行ってしまって完全な状態で残ってるマスターのDVはすでにありません。コピーのVHSだけだと思うんですが、山田達也さん持ってないかしら。タイトルは『伝えたいこと』という作品になります。
要するに私はワン・ビンの『鉄西区』に勝手に大きなシンパシーを感じてしまったのです。もちろんワン・ビンのような計画性やスタイルは私にはないわけですが、「同じような考えで映画を作る人がいるんだ」と勝手に勘違いしたことで、むしろ彼に対して親近感を覚えていたのです。
前田佳孝(まえだ・よしたか)
1984年生まれ。ワン・ビン監督の『鉄西区』(2003)に感銘を受け、北京に留学。2年間の語学勉強の後、北京電影学院に入学し、監督科を卒業。その後はワン・ビン作品の他、ロカルノ映画祭最高賞の『冬休みの情景』(2011、リー・ホンチー/NHKアジア・フィルムフェスティバル上映作品)で助監督を務めたり、『転山』(2011、ドゥ・ジャーイー/東京国際映画祭上映作品)のメイキング・ドキュメンタリー監督や、2023年にはワン・ビン監督『青春(春)YOUTH (SPRING) 』(カンヌ国際映画祭コンペティション部門)の撮影監督を務めている。写真は2014年『青春(Jeunesse)』の撮影中、同日の誕生日(11月17日)を一緒に祝う前田佳孝氏(左)とワン・ビン監督(右)。